きみがいる世界 41
フィルの元に集まってきた動物たちは、やがて茂みの奥へと戻って行った。
ふっくらとした狸や兎の尻尾が遠ざかっていく様子を、満希は瞬きせずに見つめていた。
フィルは動物の毛だらけになったズボンを軽く払って、辺りを見渡した。
「今日は、熊はいなさそうだね」
「く……熊?!」
満希は身を竦めて、辺りに視線を走らせた。
「大丈夫だよ」
怯えた顔がおかしかったのか、フィルは小さく笑った。
「昔、僕が勝ったから襲ってこないよ」
いつものおだやかな声で物騒なことを言ったフィルに、満希は言葉を失った。
目を白黒させる彼女に、フィルはいたずらっぽく歯を見せる。
「そのときの話、聞く?」
満希は静かに首を横へ振った。
なんとなく聞いてはいけない気がした。
ふと、フィルの腕を白い何かが駆け上がり、ぴたりと肩先で止まった。
「あ……前のリスさん……?」
精霊かと思ったそれは、事件の日に魔法管理局の局長であるカイルを呼びに行った白いリスだった。
やわらかな尻尾がフィルの頬を撫で、彼はくすぐったそうに目を細める。
「この子は前に怪我をしてね。看病してから、ずっと仲がいいんだ」
リスはフィルの肩先に身を寄せたまま、なかなか離れようとしなかった。
毒で倒れたあの日も、ずっと彼の傍にいたことを満希は思い出した。
フィルは鞄の中からおやつを取り出し、手を広げた。
白リスは彼の手のひらへ移動し、おやつをせっせと頬袋に詰めていく。
その様子を見つめた満希の目元が、ふにゃりとほどけた。
「アルビノですか……?珍しい色ですよね」
「うん。山神様がいるこの山は魔力が多いから、突然変異で真っ白になる動物が多いんだ」
フィルに大きなくるみを渡されたリスは、必死に口の中へ入れ始めた。
「でも昔に比べたら、白い動物は減ったね」
リスはくるみをなんとか口の中に入れると、彼の手から下りて、茂みの奥へと姿を消した。
フィルは手に残った木の実を静かに見つめて、握りしめた。
「どうしてですか……?」
「昔より、魔力が動物にまで行き渡らないんだ。この山には、世界中から精霊が集まりすぎているから」
まだらに落ちる木漏れ日の中を、精霊たちが優雅に舞っている。
思い返せば、港町のルミエラや首都のレヴァンデルも、この山に比べれば精霊の数は少なかった。
キキッ、とちいさな鳴き声が聞こえた。
視線を足元に移すと、先ほどの白いリスがフィルを見上げている。
リスはすぐに踵を返し、茂みの奥へ進んでは何度もこちらを振り返る。
まるで二人を誘うような姿に、満希とフィルは顔を見合わせた。
白いリスを追って森の奥へ入ると、先を歩いていたフィルがぴたりと足を止めた。
満希は勢い余って、彼の硬い背中にぶつかってしまう。
鼻先を押さえながら、フィルの肩越しに前を覗いた。
視線の先には、大木が道を塞ぐように横たわっていた。
倒木の前に、精霊や動物たちが落ち着かない様子で行き来している。その中には、二人を導いた白いリスもいた。
「この前の嵐のせいかな」
フィルは道を塞ぐ大木を見て、困ったように眉を下げた。
倒木を見つめていた満希は、ふさふさとした毛に足を撫でられ、小さな悲鳴を上げた。
恐る恐る視線を落とせば、満月色の瞳をした犬と目が合う。
「アサギリ……」
満希はほっと胸を撫で下ろす。
彼女は、アサギリの身体についた土や枯れ葉を、丁寧に払ってあげた。
療養中のフィルに代わり、今日も山じゅうを見て回る途中で、ここへ駆けつけたのだろう。
撫でられたアサギリは満希の手へ鼻先を寄せ、夢中で匂いを確かめた。
あまりにも念入りなので、満希は先ほどの動物たちを思い出し、すぐに手を引っ込めた。
「霧神様、頼んでもいいですか」
フィルは苦笑いをして、大木を指さした。
アサギリは尻尾を優雅に揺らし、魔法を編んだ。
倒木は、湿った土を擦る重い音を立てながら、見えない力でゆっくりと横へ引きずられていく。
倒木が横へ退くと、その先に、浅く沈んだ窪地が現れた。
倒木の前を行き来していた精霊や動物たちは、木が塞いでいた先へ足を踏み入れようとはしない。
木々に囲まれた窪地は薄暗く、そこだけが音を失ったように静まり返っていた。
中央には大きな古木がそびえ、太い根が底を覆うように伸びていた。
空気が、重い。
地面を這う根の間には、小さな石が無数に転がっていた。
石から異様な気配を感じた満希は、息を呑んだ。
「……見なくても、いいよ」
フィルは視界を遮るように、彼女の前に手のひらをかざした。
彼の顔を見れば、それがフィルの隠したいものなのだとすぐにわかった。
以前ならフィルが隠そうとするものに、自分から踏み込もうとはしなかっただろう。
けれど今は、彼が抱えているものを、ひとつでも知りたい。
許されるなら、その重さを少しでも分け合いたかった。
満希は、彼の手をやさしく押し下げた。
「フィル……これ」
フィルは根の間に転がる石をしばらく見つめ、観念したように息を吐いた。
「……うん」
困ったように眉を下げ、満希を見る。
「そう……君がこの山に来たばかりのときに見た、怖い影の正体だよ」
満希は視線を戻し、もう一度その暗い窪地を見つめた。
忘れもしない。
家の傍を通り過ぎていく、大きな黒い影。
圧倒されるような膨大な魔力の気配で、苦しくなったこと。
歪んだ視界も、彼が何も説明してくれなかったことも鮮明に覚えている。
あの時ほどではないが、胸がつかえるような感覚があった。
「あれは——精霊の核。この山で動けなくなってしまった精霊たちだよ」
2人は、無数に転がる石を見下ろした。
目を凝らせば、蝶の羽を思わせる紋様や、細い筋が石の表面に浮かんでいた。
「どうして……動けなくなったんですか?」
満希のまっすぐな視線を受け、フィルは一度目を伏せた。
ためらうように唇を開き、やがて覚悟を決めたように彼女を見返す。
「……循環から外れてしまったんだ」
悲しげなフィルの声が、暗い窪地の中に響いた。
「本来ならば……力を使い果たした精霊も、土地や山へ還って循環に戻れる」
フィルは、足元に転がる石へ視線を落とした。
「でも今は、ここへ逃げ込んでくる精霊の数が多すぎる。山神様がいるこの山でも、回復が追いつかないんだ」
フィルは窪地の中へ足を踏み入れ、横たわる石を丁寧に避けていく。
満希もスカートを押さえて、小さな段差を降りた。
「精霊の核は、時々いくつも連なって、山の中をさまようことがあるんだ」
「今は自力で動けないんですよね……? どうして……」
「わからない。魔力を探しているのかもしれないし、帰る場所へ向かっているのかもしれない」
満希が見た、あの黒い影のことだろう。
あれが大きな怪物ではなく、帰る場所を探す精霊たちだったのだと知り、満希は驚きを隠せなかった。
「動けないけど……まだ生きているんだよ」
満希は無数のちいさな生命を見つめ、言葉が出なかった。
フィルは屈み、ひとつの精霊の核を拾い上げた。
「……可哀想な子たちだよ」
フィルの大きな手が、精霊の核をやさしく撫でた。
視線を落とすフィルを、満希はじっと見つめた。
「どうしてあの日……精霊の核のことを教えてくれなかったんですか?」
問いかける声には、責める気持ちよりも寂しさが滲んだ。
フィルは困ったように、乾いた笑みを浮かべる。
「この世界に来たばかりの君に、なんて言えばいいかわからなかった。……巻き込みたくなかったんだよ」
満希は無数に転がる石を見渡し、口を真一文字に結んだ。
そこはまるで、時間の止まった異空間だった。
精霊を守るため、制度まで変えたフィル。
その理由が、今ようやく繋がった気がした。
意識を澄ませると、アサギリとのつながりの向こうに、石の奥に残るかすかな命を感じた。
それは、フィルが守り続けてきた命だった。
満希は石の前に膝をついて、目を伏せて手を組んだ。
瞼の裏に、あの日の黒い影が浮かんだ。
あの時は恐ろしくて堪らなかった。
しかし振り返ってみると、帰り道を探す迷子にも似ていた気がする。
まるであの時の自分のようで、胸が痛くなる。
フィルが隣にしゃがみこむ気配がした。
反対側には、ふさふさしたいつものあたたかいぬくもり。
自分も、元の場所へ帰れなかった人間。
だけど今は——帰ってきたと思える場所がある。
静まり返った窪地には、フィルとアサギリの呼吸だけが聞こえた。
満希は組んだ手へ、強く力を込める。
——だからどうか、もう一度。
あなたたちが、帰れますように。
満希が静かに祈ると、瞼の裏でちかっと何かが光った。
不思議に思い目を開けたが、辺りは薄暗く何も変わった様子はなかった。
「ひゃ」
隣に座っていたアサギリが、満希の頬をべろりと舐めた。
満希は驚いて尻餅をつくと、犬が彼女の上へまたがり執拗に顔を濡らす。
「こら霧神様!犬じゃないんだから!」
フィルは首根っこを掴んで、霧神様を満希から剥がした。
満希は濡れた頬を袖口で拭い、眉を下げた。
突然、フィルが弾かれたように顔を上げた。
足元の石のひとつに視線を落とし、すぐさま拾い上げる。
翠玉色の瞳が、大きく見開かれた。
「ミツキ……何を、したの?」
聞いたことがないほど、驚きに満ちた声だった。
満希は目を瞬かせ、首を横に振る。
「……どうかしましたか?」
「少しだけ……魔力が動いた?」
満希には、何が起きたのかわからない。
フィルはその核をほかの石と見比べ、もう一度凝視した。
「こんなこと……初めてだ」
フィルが信じられないような声で呟く。
彼の翠玉色の瞳が、暗がりの中で光って見えた。
「……霧神様……これは、どういうことですか」
歓喜に震える声とは裏腹に、フィルは不安そうに眉をひそめた。
問われたアサギリは知らん顔をして、そっぽを向いた。
満希は、困ったように犬を覗き込んだ。
「……教えてくれないの?アサギリ」
満希は懇願するように、アサギリの瞳をじっと見た。
満月色の瞳に彼女の姿を映し、アサギリはゆっくりと目を細めた。
——何故、知りたい。
満希の頭に、低い神の声が響いた。その声に驚き、身を竦めた。
何かを知っているような口ぶりに困惑しながら、霧神様の言葉を反芻した。
満希は何も答えられず、自分の手のひらを見つめていた。
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※今後は水曜・土曜の週2回更新を予定しています。
次回は8月5日(水)です。




