きみがいる世界 40
霧を透かしたやわらかな陽が、キッチンに差し込んでいる。
朝食の片づけを終えた満希が濡れた手を布巾で拭いていると、不意に背後からフィルが顔を覗かせた。
「僕の友達に会いに行こうと思ってるんだけど、ミツキも行かない?」
満希は何度か目を瞬かせた。
言葉の意味がわかると、たちまち表情が明るくなる。
「……動物の!」
「そうそう。今日はパン屋も定休日でしょ?」
満希は弾むように頷き、二階へ支度をしに向かった。
軽快なスリッパの足音が響き、満希の長い髪がリズムよく揺れた。
「お待たせしました」
身支度を終えた満希が庭へ出ると、薪を割っていたフィルを見つける。
彼は振り下ろしかけていた斧を止め、振り返った。
「全然待ってないよ」
彼は傍に置いた鞄を持つと、まっすぐ山を下りようとした。
満希は裏庭に行こうとした足を止め、フィルの後ろを追った。
「……ココ鶏は、お友達じゃないんですか?」
フィルは目を丸くしたあとに、苦笑する。
「僕じゃ友達にも及ばないよ。彼は先代の友達だからね」
彼らの絶妙な距離感を思い出して、ひどく納得した。
毎朝会っている裏庭の主は、どうやら同居人と言った方が正しいらしい。
村へと続くいつもの道から逸れ、フィルは茂みの中に足を踏み入れた。
道とは言い難い低木に囲まれた奥へ、フィルはどんどん進んでいく。
満希が茂みの奥をまじまじと見つめると、そこには人の通れるわずかな隙間があった。
いつもと違う森の入口。その隙間へ、恐る恐る身を滑り込ませる。
木々が身を寄せ合う森は薄暗く、重なった葉の隙間から、うすい陽が差し込んでいた。
肩の高さまで枝を伸ばした低木に挟まれ、満希は髪やローブを撫でられながら、フィルの後ろをついて行く。
朝霧を脱いだ葉には、細かな雫が残っていた。
枝が触れるたびに冷たい雫が肩へ落ち、湿った土と青い葉の匂いが鼻を掠める。
前を進むフィルは、姿が隠れてしまうほど草木に囲まれていた。
なぜ彼からいつも森の匂いがするのか、よくわかった。
「あっ」
満希の困った声が辺りに響いた。頭上の枝を折っていたフィルが、不思議そうに振り返った。
肩に流していた彼女の髪が、すぐ傍の枝に引っかかっていた。
慌てて右肩越しに髪を引き寄せるが、見えない場所に絡んでいて、うまく外せない。
絡まった枝先に身体を向けると、今度は反対側の髪が引っ張られてしまう。
そうこうしている間に、枝葉には黒い髪が幾重にも絡みついていた。
「貸して」
先を進んでいたはずのフィルが、絡まった髪に手を伸ばした。
満希は視界を遮った彼の腕を見つめ、目を瞬かせた。
彼の腕越しに、真剣な翠玉色の瞳をこっそりと見上げる。
絡まりがひとつ解けると、フィルは反対側へ手を伸ばした。
片腕が満希のこめかみの横を通り、気づけば彼の胸元がすぐそこにあった。
彼の襟元から薬草の苦い匂いがして、思考が停止する。
「すっごい絡まってるけど……」
頭上で低い声が聞こえ、満希は熱い顔を隠すように視線を下げた。
逃げたくても両側の枝に髪を引き留められ、一歩も動けない。
「ほどけたよ」
永遠かと思った時間がようやく終わった。
けれど、フィルの大きな手は、ほどけた髪を確かめるように梳いた。
やさしい手つきに、満希は顔を上げられなかった。
「髪を結んだ方がよさそうだね」
「いま結うものを持っていなくて……フィル、何か棒はありますか?」
フィルは不思議そうな顔をして、頭上にあった枝へ手を伸ばした。
彼は枝を、ぱきっと軽い音を立てて折り、彼女へ手渡した。
満希は持っていたハンカチで枝を包む。
その枝に髪を巻き付けて、かんざしと同じ要領で頭に刺した。
「えっ?!頭に刺さってるよ?」
フィルは目を丸くして、満希の頭の後ろを覗き込んだ。
「どうやってるの?痛くないの?」
「ふふっ痛くないですよ」
満希は笑いながら、慌てている彼を見上げた。
「……まさか、魔法?」
フィルは真剣な顔で、まとめられた髪をまじまじと見つめる。
「どうでしょう」
彼女はわずかに肩をすくめた。
しばらく進むと、茂みの向こうで枝葉がかすかに揺れた。
姿は見えないが、何かがこちらを避けるように移動している。
頭上からは、幾種類もの鳥の声が降ってきた。
「この辺りは、みんながよく通るんだ」
満希は、ぬかるんだ地面に残る小さな足跡を目で追った。
まだ姿は見えない。それでも少しずつ、フィルの友達に近づいている気がした。
「歩きづらいから、気を付けてね」
しだいに、木の根が絡み合った広い道へ出た。
根の間には、水の溜まったくぼみがいくつもある。
フィルは大きな根の上を、ひょいひょいと身軽に駆け抜けていく。
満希は滑りそうな根の上を、恐る恐る歩いた。
「落ちても浅いから大丈夫だよ。泥だらけになるかもしれないけど」
いつの間にか傍にいたフィルが、そっと手を差し出した。
満希は視線を一瞬泳がせた後に、フィルの指先の端をちょんと触れる。
すると大きな手に、彼女の手のひらがすっぽりと包みこまれてしまい、思わず下を向いた。
朝の森で冷えていた指先に、彼の手の熱がじんわりと移ってくる。
その拍子に、根の上で足を滑らせた。
「っ……と、ミツキ。落ちてほしいと言ったわけじゃ無かったんだけど」
「お、落ちてません。滑ったんです」
咄嗟に自分を支えてくれた彼の腕に、満希はぎゅっとしがみついた。びくともしない、男の人の腕。
からかうような声がすぐ傍に聞こえ、瞼をつよく閉じた。
……心臓がうるさい。
満希は彼の腕からすぐに離れ、前髪を直すフリをした。
繋がれた手を見つめ、唇を真一文字に結んだ。
恥ずかしくて逃げ出したい。なのに、どうしてかこの手はまだ離せない。
今度は小さな幅で慎重に歩くと、フィルもゆっくり肩を並べた。
満希の手に力が入るたび、彼ははにかんだ。
枝葉に遮られていた視界がひらけ、やわらかな陽が満希の頬に触れた。
木々が輪を描くように開けた、小さな広場にたどり着いた。
辺りはいつの間にか歩きやすい道へと変わり、花の匂いが強くなった。
満希は繋がれた手をそっと離した。
重なった葉の隙間から落ちた光が、色とりどりの花の輪郭を縁取る。
小動物の鳴き声がいたるところから聞こえ、すぐ傍にいるのがわかった。
草花の中央に古い大きな切り株があり、フィルと満希は腰を下ろした。
フィルは息を吸うと、リズム良く指笛を鳴らした。
その音は、まるで鳥の歌声だった。
「いたいた。あの子たちだよ」
揺れた茂みから、2匹のタヌキがガサリと音を立てて現れた。
「た、たぬ……」
満希は息を呑み、まるまるとした動物を見つめた。
ふかふかの丸いボディの間から、真っ黒な靴下をはいたような短い足が覗く。
「僕の初めての友達の、お孫さんと旦那さんだよ」
満希は身を屈め、たぬきたちと視線を合わせた。
「……こんにちは」
たぬきたちは警戒したような視線を満希に向けた。だが彼女にはそれすら可愛らしく見え、眉を下げた。
ふっくらとした尻尾を、視線で追った。
「この子たちはいつも一緒にいるんだ」
「本当に……つがいと行動するんですね」
狸のあまりの可愛さに、満希はどうしたらいいかわからない。困ったようにフィルを見上げた。
フィルは目を瞬かせたあとに、思いっきり吹き出した。
彼女は楽しそうに笑うフィルを、不思議そうに見ていた。
つづいて、木の影からシカの親子がゆっくりと顔を出した。
警戒した様子もなくまっすぐフィルの傍へやってくると、目の前でぴたりと足を止めた。
微動だにせず彼を見つめるので、満希は不思議そうに首を傾げた。
「……どうしたんでしょう?」
「最近顔を見せないから、怒ってるのかも」
満希は目を瞬かせ、つぶらな瞳のシカを見た。
「体調悪くて来られなかったんだ。ごめんね」
フィルがシカへ手のひらを差し出す。
シカはゆっくり匂いを確かめると——彼の胸を鼻先で押した。
「いてっ」
フィルは大きな切り株に肘をついて、困ったように笑った。
「悪かったって」
歯を見せて笑う彼がシカの首筋を撫でると、シカは待っていたとばかりに目を細めた。
けれど手が止まれば、催促するように鼻先で彼の肩を押す。
「……寂しかった?」
聞いたことのない、溶けてしまいそうな彼のやわらかい声。
満希は、自分が言われたわけでもないのに視線を泳がせた。
「その人は、ミツキだよ」
満希が視線を戻すと、視界いっぱいにシカの角が見え、息を呑んだ。
彼女の手の匂いをしきりに嗅ぐので、手を差し出す。
先ほどまで彼と繋がっていた左手だった。
小さなシカがフィルの鞄を引っ張ると、フィルはその角を軽く押した。
「はいはい、おやつだね」
フィルが鞄の中へ手を入れると、シカの親子は鞄をつぶらな瞳でじっと見つめている。
いつの間にか切り株の周りには、先ほどのたぬきや兎がちょこんと座り彼を見上げている。
「ミツキも分けてあげて」
フィルから木の実や小さな果実を手渡され、満希は慌てて両手で受け取った。
あっという間に囲まれ、自分の手元が見えなくなってしまう。
小さな鼻先やひげが次々と手のひらに触れ、満希はくすぐったそうに肩をすくめた。
「こらこら、順番でしょ」
フィルが間に割って入ると、大人しく彼らは動きを止めた。
ちいさなシカが満希の髪を食むと、その拍子にかんざし代わりの枝が落ちた。
「ああ……落ちたよ、ミツキ」
フィルが枝を拾っている間に、小鳥たちがシカの角の先に止まり始めた。
いつの間にか、大きな鳥がフィルの頭に止まっている。
「ふふ……なんてメルヘンな」
満希はこらえきれずに笑う。
手の中にあったおやつは、既に無くなっていた。




