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きみがいる世界 39


 満希は重たいカーテンを引いて試着室から出ると、フィルとリリンの姿が見当たらなかった。

 窓から差し込む光が店内に落ちると、埃が時折きらめく。

 

 仕立て屋の奥で、フィルと店主サリーの話し声が聞こえてきた。

 彼が持っていた財布を見て全てを察した満希は、慌てて傍に寄った。

 

 

「お金……!」

 満希の予想通り、フィルは洋服の支払いを済ませてしまっていた。

 試着を終えた服はいつの間にかサリーの手に渡り、綺麗に折りたたまれていく。

 

「僕は、お金の使い道がないからいいんだよ」

「ダメです。お米は二人分の食料でしたが、これは私個人の物で」


 満希は譲れないとばかりに、フィルに詰め寄った。

 彼は自分の顎に指先をそえて、悩んだ素振りを見せた。


「そしたら、また着ているところを見せてよ」


 

 満希は、息を吸い忘れた。

 昔、お気に入りの服をプレゼントしてくれた祖母にも、同じことを言われた。


 自分の喜びを大切にしてくれる人が、ここにもいる。

 気づいてしまった途端に、鼻の奥がつんとした。

 

 つらかった祖母との思い出まで、目の前のフィルとともに、きれいな宝物へと姿を変えていく。

 

 満希は深呼吸をして、財布からお金を取り出す。



「……せめて、半分です」

 満希は、潤んだ瞳に気づかれないように下を向いた。


「仕方ないなあ。でも、約束したからね」


 フィルは困ったような声を出して、満希からお金を受け取った。


 

「みんなーおやつの時間だよー!」

 

 ふと、リリンの弾んだ声が、2階から聞こえてきた。

 サリーは、満希とフィルにやさしい笑顔を向けた。


「さ、一緒にお茶でもしましょ」



 

 2階に足を踏み入れると、柑橘の皮を思わせる爽やかな香りがした。

 丸い食卓の上には、既に人数分の茶器とお菓子が用意されていた。

 

 リリンは既にいつもの定位置に座り、茶器の間からお菓子をじっと見つめている。

 

 満希が差し入れのクッキーを渡すと、リリンは嬉しそうにふっくらとした頬に手を当てた。

 早速うずまき柄の一枚を口に運ぶと、すみれ色の瞳がかがやく。



 満希とフィルは、リリンを挟んで腰を下ろした。

 花柄の薄いカップにゆっくり口をつけると、酸味と軽やかな香りが鼻から抜けていく。


「美味しい……」

「この前買ったばかりのとっておき、残っていてよかったわ」

 サリーも茶を飲み、肩の力を抜いた。

 

 

 大皿のクッキーがあっという間になくなると、リリンはフィルの皿をじっと見つめた。

 

「フィルお兄ちゃん、おひとつ……ううん、おふたつくださいな」

「しょうがないなぁ。パパとママには内緒だよ」


 フィルは慣れた様子で、小さなリリンの皿にクッキーをコトンと置いた。

 満希は目を瞬かせ、2人を見比べた。


「リリンちゃん、私の分もいる?」

「いいの。お兄ちゃんはいつもリリンにくれるから、もらってあげたの」

「なんだ気づいてたのか」


 フィルの表情が、ふにゃりとほどけた。村の子どもたちに向けるものより、ずっと気安い笑顔だった。

 満希もつられるように口元を緩め、カップに口をつけながら、リリン越しにフィルの顔を見ていた。


 

「お兄ちゃんは、ミツキおねえちゃんにも甘いよね?」

 

 突然名前を出され、満希はカップを持つ手に力が入る。

 フィルと目が合い、慌てて視線を落とした。


「普通だよね?」

「ううん、パパがリリンのおねがい聞いてくれるときと、おんなじお顔だもん」

「僕、パパと同じ顔は嫌だな……」


 満希は、スプーンを茶の中でくるくると回し続けた。

 カラカラと軽い音が、部屋に響く。

 


「それにお兄ちゃん、今日はなんだかずっとおねえちゃんのこと見てるね」

 

 リリンの何気ない言葉に、満希は息もできなくなった。

 顔を上げることができず、カップに描かれた花びらを数えていた。


「そうかな?」

 フィルは不思議そうに首を傾げた。


「フィルお兄ちゃんとおねえちゃん、仲良しだね」

「そうだよ。僕たち、前より仲良くなったんだ」


 どこか嬉しそうなフィルの声に、満希はますます顔を上げられない。

 満希は、ゆらゆらと揺れる琥珀色の茶をじっと見つめていた。


「うん。ふたりとも、ママとパパみたいな顔してる」

 

 満希とフィルは、ほとんど同時に息を止めた。

 リリンは二枚目のクッキーへ手を伸ばし、さくっと軽い音を立てて食べた。


 

「リリンもね、レオくんと仲良しなんだよ」

「レオって、たしか……ティヴェリーおばさんのお孫さんの、あの元気な子?」


 

「うん。リリン、レオくんとけっこんするの」

 

 満希は、思わずフィルと目を合わせる。

 

 フィルは、深刻そうに眉をしかめていた。

 対照的に満希は、恥ずかしさよりも好奇心が勝り、彼女のすみれ色の瞳を楽しそうにのぞき込んだ。

 

「リリンちゃんは、レオくんのどんなところが好きなの?」

「すきって言われたからだよ」

 あまりにも迷いのない答えに、満希はぽかんとしてしまった。

 

「好きって言われたら、結婚するの……?」

 満希の戸惑った問いに、リリンは当然のように頷いた。


 

 落ちた沈黙の中、サリーのカップを置く音が響いた。


 フィルは、絶句する満希をちらりと見たあと、リリンへ向き直った。

 

「じゃあ、僕が結婚してって言ったら、するの?」

「お兄ちゃんは、3番目にけっこんしてあげるね」


「……ユランが聞いたら卒倒しそうね」

 

 サリーが静かに呟いた。


 


 

 仕立て屋の青い扉が閉まり、背後で呼び鈴がカランコロンと鳴った。

 村を抜ける頃には、空が茜色に染まり始めていた。


 山道には二人分の靴音と、服の包みが擦れる小さな音が響いている。

 満希は、すぐ隣を歩くフィルを見上げた。

 

「退屈じゃなかったですか?」

「ううん。楽しかったよ」


 フィルは抱えた服の包みを見下ろした。


「リリンとミツキ、嬉しそうだったし」

 

 満希は返事ができず、山道へ視線を落とした。

 

 

「それにしても、リリンには驚いたね」

 二人は顔を見合わせ、苦笑した。

 

「フィルは、リリンちゃんと仲良しですね」

「あの子が産まれたときから知っているから、親戚みたいな気持ちになるよ」

 

 フィルは、思い出をたどるように目を伏せた。

 

 

「今日はユランがいなかったから、久しぶりにたくさん話したな」

 

 懐かしそうに目を細めるフィルにつられ、満希の口元もほころんだ。


 

 服の包みが、ガサリと音を立てる。

 軽い荷物くらい自分で持てるというのに、フィルは代わりに持ってくれる。


 ——お兄ちゃんは、ミツキおねえちゃんにも甘いよね?


 先ほどのリリンの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


 彼は、この山に来てからずっと優しかった。

 けれど最近は、以前にも増して甘やかされている気がする。

 保護下の裏人としてではなく、満希をひとりの人間として見てくれている。



 前から、こんなに距離が近かっただろうか。

 自分が意識してしまったせいで、そう感じるだけかもしれない。


 ふと目が合うと、翠玉色の瞳が細められる。

 見つめていたいような、今すぐ逃げ出したいような。


 満希は落ち着かない気持ちのまま、山道を歩いていた。

 

 

 

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