きみがいる世界 38
満希の就業時間が終わる頃、フィルはパン屋の扉を開ける。中から、甘い香りや香ばしい匂いが鼻を掠めた。
店内を覗くと、真っ先に気づいたクロエがにんまりと笑う。
「ミツキ、お迎えが来てるわよ」
声をかけられた満希が振り返り、目をぱちくりとさせた。
あまりにも驚いた顔をしているので、フィルは苦笑する。
「なんだか元気そうね。もう身体は大丈夫なの?」
「うん。身体もなまってきたし、ずっと家にいるのもよくないと思ってね」
「でも、山の上り下りは大変なのに……」
満希は、眉尻を下げた。
自分が寝込んでいる間に、彼女はずいぶん心配性になってしまったらしい。
けれど、こうして案じられるのは悪い気がしなかった。胸の奥が、妙にこそばゆい。
「心配しすぎだって」
フィルは安心させるように満希へ手を伸ばしかけ、動きを止めた。
クロエが口を真一文字に結び、笑いを堪えている。
「すぐに着替えてきますので、すこしだけ待っててください」
こちらの様子に気づかないまま、満希は店の奥へ向かった。
行き場を失った手を、フィルは何事もなかったように引っ込める。
「……もう、頭で考えるのはやめたみたいね?」
——恋愛は、頭でするものじゃない。
以前、この場所で言われた言葉が蘇り、フィルは口元を歪めて視線を泳がせた。
あの日クロエに告げた言葉どおり、自分の気持ちを優先するつもりは、今もない。
しかし、あの山にいたいと言った満希の気持ちを知って、安心してしまったようだ。
「……前より、傍にいたいんだ」
言葉にしてみると、最近の自分が無意識に彼女へ近づいていた理由が、すとんと腑に落ちた。
いつか押し込める気持ちを、今は大事にしていいのだと思えた。
ふと、にんまりするクロエの顔に気づいて、眉をしかめた。
「……その顔ヤメロ」
満希とフィルはパン屋を出ると、霧の晴れた空を見上げ、目を細める。
彼は山ではなく、仕立て屋の方へ足を向けた。
「今日サリーさんのとこ寄るって言ってたよね?一緒に行くよ」
「……退屈じゃないですか……?」
「そんなことないよ。みんなにも会えるしね」
満希は心配そうな顔をして、しぶしぶ頷いた。
あの夜に着ていた彼女の寝間着はもう着られなくなってしまい、今日は代わりの物を買いに行く予定だ。
寝間着がもう着られないと知ったときの、満希の残念そうな顔を覚えていた。
気づけばフィルは、彼女を迎えにパン屋まで来ていた。
仕立て屋の青い扉を開けると、来客を知らせる呼び鈴がカランコロンと音を鳴らした。
木綿の匂いがする店内の奥から軽快な足音が近づき、リリンが顔を出した。
「ミツキおねえちゃん、会いたかった!」
「ふふ、一昨日パン屋に来てくれたばかりだよ」
満希は腰を折り、リリンと視線を合わせて目尻を下げた。
アサギリに向ける眼差しと、同じだ。
部屋の奥の大きなカウンターでは、店主のサリーが静かに縫物をしていた。
店主はフィルたちにおだやかに笑いかけると、すぐに作業に戻った。
「ほしかったの、このお洋服だよね?」
リリンはおさげをふわりと揺らし、背丈よりも高い棚のひとつを指さした。
事前に話を通していたらしく、以前と同じ部屋着が既に用意されていた。
満希の顔がパッと明るくなり、愛おしそうにそれを撫でる。
「それとね、ミツキおねえちゃんに似合いそうな服も選んでおいたの」
「……え?」
満希はすぐ隣に置かれた服を見て、困ったように眉を下げた。
「せっかくリリンが選んでくれたんだから、着てみたら?」
遠慮しそうな彼女に、先にフィルが声をかけた。
「フィルをお待たせしちゃいますけど……」
「待っている間は、リリンがお兄ちゃんのお相手をするからいいの」
「たしかに。それがいいね」
フィルはリリンと目線を合わせ、人懐っこい笑顔を少女に向けた。
満希は少女の選んだ服をじっと見つめ、遠慮がちに頷いた。
選ばれたグレーのブラウスは、しわが見つからないほど綺麗に折りたたまれていた。
リリンはそれを広げ、満希に見せた。
「絶対にこれが似合うの」
満希はその服を見た途端、口元を隠した。
「こ、これは可愛すぎ……ないかな……?」
彼女は信じられないものを見るように見つめ、言葉を失っていた。
フィルには服の違いがよく分からなかったが、満希が普段着ているものより、随分ひらひらしている気がした。
満希はその洋服を、ずいぶん長いこと見つめた。
「リリンちゃんが、言うなら……」
意を決したような、静かな声が響いた。
◇
リリンが全身を使って大きなカーテンを引くと、店の一角がゆったりとした試着室へ姿を変えた。
上質な厚手の布地が外からの視線と光を遮り、静かな個室のようだ。
大きな姿見の前で、満希は首元のボタンを緩めた。
「フィルお兄ちゃんは、おねえちゃんのプレゼントもらったの?」
リリンの無邪気な声がカーテン越しに微かに聞こえ、満希の手が止まった。
「そっか、リリンは知ってたんだね。ほら、これだよ」
「すごーい!お花の刺繍!」
「上手だよね、大事にしてるんだ」
満希は息を呑み、硬直した。フィルは、今日も持ち歩いているらしい。
居たたまれなくなり、慌てて着替えを進めた。
満希は鏡に映った自分を見て、言葉を失った。
ブラウスは綿菓子のようにあまく、女の子らしいデザインだ。
大きな丸襟に繊細なレースがあしらわれ、小さなくるみボタンが首元まで続いている。
肩回りや袖口にフリルが多く、角度を変えるたびにひらりと揺れる。
だがフリルは優雅な曲線を描き、くどさのない可憐さだった。
それに、くもり空のような色合いが甘さを抑え、全体を落ち着いた雰囲気にしている。
いつもと違う。でも、違和感がなかった。
さすがリリンだと、満希は愛おしそうにその服を撫でた。
カーテンを開くと、2人の目がぱっと輝いた。
「おねえちゃん、かわいい!」
リリンは興奮した様子で近づき、満希を見上げた。
満希は落ち着かないまま、お礼を口にして苦笑した。
「ミツキ、似合ってるよ」
フィルは、目を細めてはにかんだ。
おだやかな声に驚いて、満希は彼の胸元へ視線をずらした。
前に黄色いワンピースを褒めてくれたときとは、なんだか違う。
「でも……ちょっと……この服、可愛すぎませんか?」
満希は服の裾を指先でいじった。
「だから似合ってるんだよ」
当然だとばかりに言い切られ、満希は目を瞠った。
彼からやさしい眼差しを向けられると、自分がまるで素敵なものになったような錯覚に陥る。
「…………それは……よ、よかったです」
満希はすぐに試着室のカーテンを閉めた。
鏡には、カーテンを握りしめ、顔を真っ赤にした自分が映っていた。




