きみがいる世界 37
鳥のさえずりが、木々の間を縫うように響き渡った。
うっすらと朝霧に包まれた裏庭で、満希とフィルは息をひそめた。
「……いける?」
フィルが緊張した声で尋ねると、満希は涼やかな顔で頷いた。
満希は持っていた野菜を細かくちぎり、小屋から離れた方へ投げた。
すると、裏庭の主であるココ鶏は、それ目がけて一目散に駆け出した。
その隙に彼女はココ鶏の小屋に入り、産みたての青い卵をそっと布に包んだ。
「……すごい、僕より取るの上手だね。ココ鶏は気性が荒くて、大変なのに」
「毎朝いただいてるので、お互い慣れた気がします」
満希は余っていた野菜を地面へとばらまくと、庭を後にした。
家へとつづく道に、彼女は霧花を見つけた。
朝だけ咲くその花に笑いかけると、持っていた水を撒いた。
「ミツキの朝は、忙しいね」
フィルは感心したような声を出した。
珍しく早くに目を覚ましたフィルは、彼女の後ろをついて回っていた。
「僕の朝と、全然違うや」
フィルは頭を掻くと、はねた寝ぐせがぴょこんと立つ。
満希はそれを見つけ、慌ててにやけそうな口元を隠した。
「今日のおやつはプリンを作りましょうか」
「いいね!プリンなら、寮で食べたことがあるよ」
満希は玄関でひもを緩めて靴を脱ぎ、頭を上げた。
急に足を止めたフィルとぶつかりそうになり、慌てて靴箱に手をついた。
「今日は作ってるところ、見ていいでしょ?」
フィルが、楽しそうに満希を覗き込んだ。
彼の純粋な翠玉色の瞳に言葉を詰まらせ、息がしづらくなる。
その視線から逃れるように、顔を背けた。
「危ないので……離れているなら、いいですよ」
満希は、か細い声でちいさな嘘をついた。
台所の小さな窓から、部屋に陽が入り込んだ。朝霧が晴れたらしい。
香ばしい朝食の匂いがしたのか、アサギリがどこからか現れた。
満希は朝食の支度中に、思いついたように手を叩いた。
「フィルもプリンを作ってみませんか?」
「え?!作れるかな……」
いつもの頼れる姿は、どこへやら。フィルは不安そうに眉を下げた。
満希は目を瞬かせ、口元をほころばせた。
彼女は慣れた手つきで青い卵を割ると、濃いオレンジ色の黄身が顔を出した。
「プリンは簡単ですよ」
割った卵に、砂糖を匙で何杯か加え、ヤギのミルクを注いだ。
フィルは渡されたヘラで、恐る恐る材料を混ぜ始めた。
満希はオーブンに触れて、熱を入れた。
背の高い食器棚から色とりどりの皿をいくつか選び、調理台に並べる。
フィルは満希に言われるがままに、混ぜた材料をそれぞれの器へ流し込んだ。
「あとは蒸すだけです」
「もう終わり?」
水を張った天板へプリンを並べ、そのままオーブンへ入れた。
フィルは掃除されたばかりのオーブンを、興味津々に眺める。
「ミツキは、分量覚えてるの?」
「いえ、適当です」
彼女の淡々とした口調に、フィルは目を丸くした。
その表情がおかしく、彼女の口元がまた緩む。
「美味しいといいですね」
悪戯そうに目を細めた彼女から視線を外し、フィルは心配そうにオーブンを見つめた。
「では、仕事に行ってきます」
朝食を食べ終えた満希は、玄関まで見送りにきたフィルを振り返った。
見送られることに慣れない彼女は、落ち着かずに前髪をいじった。
「プリン、冷えたら食べていいですからね」
「待ってるから、一緒に食べよ?」
思いもよらない言葉に、満希は瞬きを繰り返した。
フィルは何か考えたあとに、視線を逸らした。
「……早く帰って来てね」
フィルはそれだけ言い残し、部屋に戻ってしまった。
取り残された満希は呆然と立ち尽くした。
早くプリンが食べたいのだと、わかっている。なのに、頬が熱くて仕方なかった。
正午過ぎ、仕事を終える頃には、急に空が暗くなりはじめた。
「今日は荒れそうね」と漏らしたクロエの言葉通り、帰り道は風が次第に強まった。
木々たちが、風に揺れてざわめいている。
満希の髪もあちこち遊ばれ、視界を遮った。慌てて手で押さえた。
雨が降り始めた頃、ようやくログハウスに辿り着いた。
玄関の扉を閉めると、雨音が一段と激しくなった。
「おかえ……うわ、ミツキ大丈夫?」
大きなタオルを持ったフィルが、満希を出迎えた。
彼はタオルを渡すと、顔にかかった彼女の髪を丁寧に指先で梳いた。
満希は、タオルへ顔をうずめた。
また、近い。
彼女は靴を脱ぐふりをして、フィルの手から逃げた。
「……今日は、荒れるみたいですよ」
「やっぱり?」
フィルが扉を開くと、居間には精霊が溢れかえっていた。
その数はいつもより多く、薄暗くなりはじめた部屋を微かに照らしていた。
「風が強い日は、集まっちゃうんだよね」
困ったように、フィルはため息を吐いた。
避難先にフィルの家を選んだ精霊たちを見て、満希の口元に笑みがこぼれた。
「美味しい……」
「やさしい味……懐かしいなあ」
昼食を済ませた2人は、冷えたプリンを口に含み目尻を下げた。
フィルは一口食べるたびに味を噛みしめ、記憶をたどるように目を伏せた。
すの入ったプリンを見つめた満希は、頬をゆるめた。
カラメルソースの入っていない、素朴な味のプリン。
祖母の作ったものを思い出し、胸がじんわりとした。
「もしかして、裏人の誰かがプリンを広めたのかな」
「どうでしょう……逆だったりするかもしれませんね」
「それは聞いたことないな……面白い話だ」
ちまちまとプリンを食べていると、既に食べ終えたフィルと目が合った。
すると、すぐに彼の目尻が下がった。
「ミツキは、本当に甘いものが好きなんだね」
優しい目をしたフィルに、満希は言葉を失った。
何も言い返せず、最後のひとくちを口に押し込んだ。
水の落ちる音が、浴室に響く。
次第に雨風は激しさを増し、いつもと違う夜になった。
満希は肩まで湯につかり、身を竦めた。家が壊れてしまいませんように。
強い風に家が軋んだ、その瞬間だった。
浴室を照らしていた灯りが——消えた。
肩が跳ねると、浴槽の水がちゃぷんと音を立てた。
真っ暗な浴槽の中で、満希は息を殺し自分の膝を抱えた。
外から、窓を叩く強い雨の音や唸り声のような風の音が響く。
しばらくして、ノックの音とフィルの声が微かに聞こえた。
浴室からはよく聞き取れず、浴槽から出た。
満希の手が、暗闇の中で頼りなさげにさまよう。
濡れた床を、一歩ずつゆっくり進み、扉を見つけた。
扉を力いっぱい押すと、予想に反してするりと開いた。
「ひゃ」
「うわ!」
満希は勢い余ってよろめいた。だが、何かにぶつかり転ぶことは免れた。
痛みはやってこず、薬草の匂いがしみ込んだ布に、顔を埋めていた。
あたたかくて、固い壁。
すぐに頭上から、短く息を吸う音がした。
背中を支えていた手が離れると、そこだけ熱の痕が残ったようにじんじんとした。
フィルだとわかった途端に、頭が真っ白になった。
「み……見……?!」
「見てない!ちっとも見えない!!」
2人は慌てて離れようとした拍子に、フィルの手が微かに彼女の身体を掠めた。
彼の身体が、ぴたりと動きを止めた。
満希は脇腹を押さえ、顔が熱くなる。
暗闇の中、互いの気配だけが近い。
満希から滴る雫が、フィルの服をじっとり濡らした。
「何度か声をかけて……返事がなかったから……」
「…………聞こえなくて」
満希は耳の奥でうるさい自分の心臓の音を、呆然と聞いていた。
フィルが、ゆっくりと一歩後ろへ下がる気配がした。
「ほんっと、ごめん……僕、出るから」
「ま、待って!……ください」
金縛りにあったように動けないまま、満希は胸元を腕で隠した。
「……まだ、動かないで……」
声が震えた。
すぐ傍で、フィルの唾を飲み込む音が聞こえた。
浴室で水の落ちる音が反響した。
それを合図のように、2人は止めていた息を吸った。
「……いつ、灯りが点くかわからないよ……」
「でも、でも、い、今……もしも見えたら……っ」
自分の腕をきつく抱きしめる満希に、いつもの冷静さはなかった。
「……大丈夫だよ」
フィルは、まるで自分を落ち着かせるように、短く息を吐いた。
「僕、目瞑ってるから」
「……本当ですか?」
「信じられないなら、僕の目を触ってみなよ」
満希は重たい腕を、声のする方へ伸ばした。
濡れた手が固い胸板に触れ、布越しに肩口を探る。そのまま首元から頬へ滑らせると、彼の肌を雫が伝っていった。
薄い瞼と睫毛が、指先をくすぐる。
「ね?風邪引いちゃうよ」
フィルのやさしい声に、満希はようやく強張らせた身体をゆるめた。
彼からそっと離れ、手探りでなんとかタオルを見つけて身体に巻いた。
「……フィル、もう動いて大丈夫です」
布の擦れる音が、遠ざかっていく。
やがて、洗面所の扉が閉まる音が聞こえ、満希はその場にしゃがみ込んだ。
「……びっくりした」
髪からぽたぽたと雫が落ちて、床を濡らしていく。
冷たい水が足の指先まで広がってきても、満希はその場から動けなかった。
満希は暗闇の中でどうにか寝間着を身につけると、手探りで扉を見つけ、居間へ足を踏み入れた。
そこは、光をまとって舞う精霊たちで溢れていた。
入る部屋を間違えたのかと疑うくらい、幻想的な世界に息を呑んだ。
精霊の光でぼんやり照らされたフィルが、ソファに座っていた。
先程とは違い、居間は互いの顔がよく見える。
「嵐のせいで、山の魔力が一時的に歪んだみたいだ」
彼は、気恥ずかしそうに目を逸らした。満希もつられて、視線を外した。
「嵐が止めば、そのうち灯りも点くよ」
窓に目を向けたが、雨風は勢いを増すばかりで、止みそうになかった。
「ミツキ、髪乾かそうか?」
彼女は濡れたままの自分の髪に触れた。
「フィルの魔力は……平気なんですか?」
「少しなら大丈夫だよ。それに、使わないと使えなくなってしまう」
そういうことであれば、と満希は遠慮がちにソファの前に腰を下ろした。
フィルが指を鳴らすと、風がどこからか流れて来た。
大きなあたたかい手が、恐る恐る満希の髪に触れた。
フィルが寝込んでいた間は、アサギリが満希の髪を乾かしていた。
霧神様の魔法は、風があちこちから流れ、すぐに髪が乾いた。
前は眠たくなるほど心地よかったのに、今はフィルの手に髪を梳かれるたび、妙にくすぐったい。
満希は久しぶりの感覚に黙っていられず、話題を探した。
「あの……フィルの魔法って、杖を振るときと指を鳴らす時がありませんか?」
「うん、そうだよ。よく気づいたね」
「何が違うんですか?」
「え?うーん、そうだな……」
フィルは風を止めて、どう説明するか悩み始めた。
風は止んでいるのに、彼の手だけは満希の髪を撫で続けていた。
本人は、そのことに気づいていないようだった。
満希は俯くしかなかった。
「場所によって違うかな。そこでよく使う魔法は、指を鳴らす。初めて使うときは、杖で編むんだよ」
フィルが指を鳴らすと、また風が流れはじめた。
思い返せば、フィルは家の中で指を鳴らすことが多かった。
「こんなのとかね」
杖をどこからか取り出すと、宙に緑の軌跡を残しながら何かを描いていく。
満希はその光を目で追った。すると、杖の先からぱちぱちと光が爆ぜた。
「あ!」
それは、いつか広場で見た線香花火のような魔法だった。
光をうっとりと眺めた満希の顔が、ぼんやり照らされた。
「フィルは、すごい魔法使いですね」
「僕は派手な魔法は苦手なんだ……こんなの誰でもできるよ」
「クロエもですか?」
「……あの人は机に大人しく座れないから、座学は無理かも」
満希はくすくすと笑い、瞼を閉じた。
見たばかりの魔法が、瞼の裏で爆ぜた。
「じゃあ、やっぱりフィルはすごいですね」
フィルはぴたりと動きを止めた。それからすぐに、彼女の髪をわしゃわしゃとかき回した。
満希が驚いて振り返ると、彼はいたずらっぽく目を細め、はにかんだ。
満希は乱れた髪のまま、つられて笑ってしまった。




