きみがいる世界 36
「今日は何をつくるの?」
晩御飯の準備をしている満希の頭上から、無邪気な声が降ってきた。
風呂から上がったばかりのフィルが、いつの間にか背後に立っていた。
湯上がりの体温を背中に感じ、満希は身体を硬直させた。
石鹸の匂いが、する。
料理を覗き込んだ彼の前髪から、雫がぽたぽたと落ち、満希の頬や肩を濡らしていく。
最近のフィルは、なんだか妙に近い。
満希は頬が熱くなっていくのを感じながら、捏ねていた肉へ視線を落とした。
「まだ、秘密なので……ソファで待っててください」
雫から逃げるように、そっと横へ移動した。
けれどフィルは、いつもの定位置へ戻らず、満希の手元をじっと見つめた。
「見てちゃダメ?」
満希は息を止め、無防備で甘いおねだりにまた固まった。
つい先日、魔法管理局の制度改正を成し遂げた人物とは到底思えない。
「ミツキの料理は、魔法みたいなんだ。ずっと、見ていたい」
満希は捏ねていた肉を、ぎゅっと握りつぶした。同じように、心臓まで掴まれたような気がした。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
うろたえながら俯き、ひたすら肉を捏ね続ける。
やはりこの距離は、心臓によくない。
「な、内緒なので……今日は、ダメです」
すっかり捏ねくり回された肉を握り、どうにか声を絞り出す。
フィルは名残惜しそうに彼女の手元を見つめた後、しぶしぶ居間へ戻っていった。
石鹸の匂いが薄くなると、満希はその場に崩れ落ちた。
居間は、香ばしい肉の香りで満ちた。
食卓に皿を置く音が響くと、フィルとアサギリが同時に顔を上げた。
待ちきれない様子の二人を見て、満希の口元に笑みが浮かぶ。
皿には、肉と野菜を挟んだ丸いハンバーガーが載っていた。
フィルは、満希の皿と自分の皿を見比べた。
「なんか、僕の分だけ大きくない?」
動揺のあまり、途中から記憶が曖昧だ。
いつの間にか一回り大きくなっていた肉を指さされ、満希は曖昧に笑った。
フィルは椅子に座り、彼女の持ち方を横目で確かめた。
同じように両手でパンを持ち、大きく口を開けてかぶりつく。
そのまま何度か咀嚼したあと、彼の目がみるみる輝いていく。
「おいしい!」
弾んだ声に、満希の胸が温かくなる。
フィルは口元についたソースにも気づかず、夢中で二口目を頬張った。
「僕これ、いちばん好きかもしれない」
「本当ですか?」
「うん。肉が大きいのもいいね」
無邪気に言い切られ、満希は思わず俯いた。
大きくなった理由を知らないフィルは、嬉しそうにまたかぶりつく。
満希は頬が緩むのを抑えられないまま、みるみる小さくなっていくハンバーガーを見つめていた。
後片付けを終えた満希が、ボールを咥えたアサギリを見つけた。
彼女がボールを奪うと、犬は目を爛々と輝かせ、尻尾をリズミカルに振った。
ソファに寝転んだフィルは本から目を離し、ボール遊びをする一人と一匹に、苦笑をこぼした。
最近は食事を終えると、こんな感じだった。
ソファ前に座る満希の髪が、本を持つフィルの手をくすぐった。
その髪へ手を伸ばしかけ、フィルは息を呑む。
彼女との時間を惜しむあまり、最近は無意識に近寄りすぎてしまう。
言うことを聞かなくなった自分に気づかれないよう、伸ばしかけた手を引き、わずかに距離を取った。
ボールを咥えたアサギリは彼女の前まで来ると、ごろりと仰向けになった。
フィルと満希は、息を止めた。
霧神様が甘えている。フィルは、信じられないものを見るように犬を見つめた。
満希は恐る恐る、両手でアサギリの脇からお腹を撫でまわし、ため息を吐いた。
もっと撫でろと催促するように、犬が前足をちょいと満希へ伸ばし、空を掻いた。
彼女はその前足を包み込み、顔を寄せた。
「……ポップコーンのにおい」
うっとりとした声が、ちいさく聞こえた。
「……ミツキって、けっこう犬好きだよね?」
興味津々にフィルが呟いた。
ゆっくりソファを振り返った彼女は、一部始終を見られていたことに気付き、表情が硬くなった。
「普通です」
淡々とした声だが、涼やかな瞳がぎこちなく逸らされた。
彼女の下手な嘘に、フィルは吹き出しそうになるのを堪えた。
「フィルは、犬好きですか?」
「動物はみんな好きだよ」
守護人の代役を務め、出かけることの多くなったアサギリを、満希は撫で続けた。
アサギリが目を細めると、口からボールが床へ転がった。
「昔からこの山で遊んできたから、知っている顔が多いんだ。みんな、僕の友達」
満希の目がかがやいたのを、フィルは見逃さなかった。彼女はどうやら生粋の動物好きのようだ。
「今度、僕の友達を紹介させてよ」
満希は瞳をさらに輝かせ、大きく頷いた。表情を取り繕っているが、口元は緩んだままだ。
フィルは、喜ぶ彼女を見て目尻を下げた。
満希は、熱心に自分を見つめるアサギリと目が合うと、やさしく笑いかけた。
「……今日も、山は何事も無かったみたいですね」
満希がぽつりと溢した。
フィルは違和感に気づき、眉を少しだけひそめた。
「ミツキって……霧神様の声って聞こえるの?」
「いえ、一度しか聞いたことがないです」
「……なんで、山が何も無かったとわかったの?」
はた、と撫でる手を止め、満希は膝元に顎を載せたアサギリを見た。
「……確かに」
不思議そうに呟いた彼女自身も、疑問すら抱いていなかったようだった。
満希は考えを巡らせたあと、頭を上げた。
「山と一緒になったような……不思議な感覚といいますか……」
フィルは納得したように頷き、神と混ざり合った魔力を、改めて感じ取った。
「霧神様の魔力のせいだね。神様はそもそも山の一部みたいなものだから」
満希は目を瞠って、足元の犬を見た。
驚愕する彼女に、フィルは苦笑した。アサギリが霧神様なのだと、改めて実感したに違いない。
「守護人が残した文献には、山全体を見渡すような深い感覚があったと記されているんだ。似てるね」
思い当たることがあるようで、満希ははっと顔を上げた。
「……だから、あの日、誰かが山へ入ったことが分かったんですね」
フィルも目を見開いた。
あの日、彼女はフィルよりも早く察知していたのだろう。
「そうかもしれないね。今度、山の異変に気づいたら、すぐに教えて」
「はい。次の対策に、つながりますね」
満希は、安堵した表情を浮かべた。
「……ということは、私にも……守護人の力があるってことですか?」
満希は自分の手を、信じられないもののように見つめた。
「近い、というべきかな。全く一緒じゃないと思うよ」
「……どうしてですか?」
「君の印は、僕のものとは少し違うんだ」
フィルは、彼女の首元を指さした。
印があったことに気づいていない満希は、首元を触る。
「色も違うし、刻まれている模様も違う」
フィルは自分の服をめくり、脇腹に刻まれた印を確かめた。
思い切り顔を逸らした満希の耳が、みるみる赤くなっていく。
恥ずかしがる彼女を見て、フィルはきょとんとした。
「……ただのお腹だよ?」
「……………………風邪を引きます」
満希は気を取り直すように、背筋を伸ばして深呼吸をした。
「……それで、その印が守護人の……?」
「そう。ミツキの印は、選ばれた守護人のものではないと思ってるよ」
彼女は見えない印を、ゆっくりとなぞった。
「……神様の、縁のしるしですね」
満希の、やさしく愛おしそうな声が響いた。
フィルは、目を瞠った。
神様に選ばれなかった彼女にとって、それは特別な意味をもつものだと気づいた。
「……そんな風に考えたこと、無かったな」
フィルはぽつりと呟いて、自分の印をなぞった。
アサギリは満希の隣へ座りなおし、彼女の手に頭をこすりつけた。
手が止まっていたことに気づいた満希は、眉尻を下げてアサギリを撫でた。
もっと撫でてと伸ばした前足が、彼女の肩口を掠めた。
「いた……っ」
満希の鋭い声に、アサギリとフィルは目を丸くした。
苦痛に顔をゆがめた満希を、犬は困ったような目で見上げた。
「大丈夫?」
フィルは身体を起こして、彼女を覗き込んだ。
「大丈夫です……ちょっと、当たってしまっただけで」
満希は取り繕うような笑みを浮かべたが、視線が泳いだ。
フィルはすぐに、彼女の嘘に気づいた。
「全然大丈夫そうな声じゃなかったよ。見せて」
自分でも驚くほど低い声が出た。
彼女は躊躇うように、目を伏せた。
「……でも」
「放っておいて、悪化したら大変だよ」
満希はしぶしぶ頷き、襟元のボタンを外し始めた。
ぷちぷちと順番にボタンが外れていく様子を見ていたフィルは、息を呑んだ。
「え」
フィルは慌てて顔を逸らした。
部屋に沈黙が落ちると、布の擦れる音が大きく聞こえた。
フィルの頭が真っ白になっていく。
(僕は……今、彼女に何をさせているんだ……?)
顔が熱くなっていくのを感じて、顔を伏せた。
「ま、待って。見せて、とは言ったけど……」
「え、……なんか間違えましたか?」
「まち……がっては、無い」
満希はフィルの言葉に首をかしげつつも、緩くなった襟を片側だけ落とし、背中を向けた。
フィルは恐る恐る、露わになった白い肩を見た。
赤紫色に変わった痣を見た途端、フィルの表情から気恥ずかしさが消えた。
その痣は真新しいものではなく、あの夜のものだとすぐにわかった。
「……痛む?」
「触らなければ、痛くないです」
「薬、塗ろう。待ってて」
声が、掠れた。フィルはすぐに、薬箱を取りに立ち上がった。
満希は、治りかけた自分の腕にある傷口を見ていた。
フィルが薬を手に取ると、薬草の匂いが鼻を掠めた。
彼女の痣へ伸ばしかけた指を、ためらうように止めた。
「……触れていい?」
満希は問われた途端、耳を赤くして恐る恐る頷いた。
肩甲骨の周りには、本の背が当たったような真っ直ぐな跡がいくつも残っていた。
あの夜、自室の床に散らばった本を思い出し、表情を歪めた。
見える範囲へ、慎重に薬を塗った。服の下まで広がる痣には、触れるわけにはいかなかった。
「……痛い?」
「いいえ、フィルの手は優しいです」
フィルは息を呑み、手を止めた。
(そういうことを、聞いたわけでは無かったんだけど……)
また頬が熱くなるのを感じ、誰が見ているわけでもないのに、下を向いた。
大人しくなったアサギリが、申し訳なさそうに満希を見上げている。
視線に気づいた彼女は、上体を動かさないように犬へ腕を伸ばした。
「アサギリのせいじゃないよ」
撫でられたアサギリは、じっと彼女を見ていた。
「霧神様、気を付けてくださいよ」
フィルがむすっとした声で言うと、犬は不服そうに鼻を鳴らした。
遠くの方で虫の声が聞こえ、深い夜がすぐそばまで来ていた。
「終わったよ。これ、つけるとマシになる筈だから」
満希に薬を手渡し、視線を落とした。
残ってしまった傷跡を見て、フィルは罪悪感に押し潰されそうだった。
「……フィルのせいでも、無いですよ?」
沈んだフィルの顔を見た満希が、ふわりと笑った。
フィルは、思わず苦笑いをした。
「ところでフィル、食べられる薬草って余ってたりしませんか?」
フィルは急な話に、面食らった。
満希は薬草の匂いを懐かしむように吸い込み、目を伏せた。
「フィルが前に作ったハーブのスープが美味しかったので、私も料理に使ってみたいなって」
予想外の言葉に、彼は思わず吹き出した。
彼女の明るさにつられて、フィルも笑顔になってしまう。
「いっぱいあるよ。見てみる?」
満希は頷き、薬箱を抱えたフィルの後を追うように立ち上がった。
「明日はどんな料理をつくろうかな……」
弾んだちいさな呟きに、フィルの口元が緩んだ。




