きみがいる世界 35
昼下がりのパン屋は、小麦の焼ける匂いで満ちていた。
仕事終わりの満希は、ガラス越しに日光浴をするパンたちを真剣に見つめていた。
「なんだかご機嫌ね」
不意にクロエに声をかけられ、満希は緩んだ口元を引き結ぶ。
「フィルは元気になった?」
「はい、おかげさまで前よりは……」
夜に熱を出すことはあるものの、体調は安定してきた。
浮かない顔を見せる日もあるが、食事のときだけは表情が明るくなる。
美味しそうに食べる彼を思い浮かべて、満希はまた口元を綻ばせた。
「ミツキ、まるで恋をしている顔ね」
カシャーン、と持っていたトングを落とし、満希は固まった。
鎌をかけたクロエは、にんまりと笑った。
「ようやくね」
本人よりも先に、恋心に気づいていた彼女は、いたずらな目を細めた。
「それで、いつ彼に告白するの?」
「し、しません……!」
真っ赤な顔をした満希は、落としたトングを拾い、クロエを軽く睨んだ。
クロエは夜の森の色をした満希の瞳を、探るように覗き込んだ。
「フィルと、恋人になりたいって思わないの?」
「……こ、?!」
クロエの言葉に満希の口がわなわな震えた。
我に返り深呼吸をし、色んな顔をするフィルを思い浮かべ、あれこれ想像してみる。
「……ど」
「ど?」
ためらうように言葉を止め、視線を泳がせる満希にクロエは首をかしげた。
厨房から、焼けたパンを載せた鉄板を置く音が響いた。
満希は瞼を伏せたまま、震える唇で口を開く。
「どうしたらいいか……わ、わかりません」
クロエは口をあんぐりと開き、可愛すぎる彼女に声を失った。
これは、初恋に違いない。
満希のいじらしさ肩を震わせ、おせっかいな言葉を全て飲み込んだ。
「ゆっくり考えるといいわ」
お姉さんらしいクロエの言葉に、満希はぎこちなく頷いた。
満希は2人分のパンを見つめ、眉をひそめた。
行き先も決まらず、何もできない自分に、ゆっくり考えている猶予などあるのだろうか。
「……局長、来るときは文を寄越すように言いましたよね?」
「お目覚めかい、眠り姫」
居間で堂々と居座るカイルを見つけ、フィルは呆れた視線を向けた。
したり顔でドーナツを頬張る局長に、フィルは違和感を覚えた。
食卓に置かれていたはずの自分のおやつが、明らかに減っている。
「……あ!僕の、食べましたね!!」
「このドーナツ美味すぎるんだけど、まさか手作り?」
しげしげとおやつを眺めるカイルに、フィルは開いた口が塞がらなかった。
フィルは小さくなったおやつを、名残惜しそうに見つめた。
「これは、立派な不法侵入です。転移魔法を私物化しないでください」
「まあまあ。村人のおつかいで自由に使わせてあげてるから、いいじゃない」
「ぐっ」
フィルはそれ以上何も言えず、満希が用意した食事を自分の方へと引き寄せた。
部屋の窓から明るい日差しが、青い髪を鮮やかに照らした。
カイルは何を話すでもなく、持ってきたクッキーの袋をガサリと開け始めた。
「……何しに来たんですか」
完全にくつろぎはじめた上司に、フィルはげんなりとした顔を向けた。
「またミツキちゃんの料理を食べたくなってね」
カイルは彼を気にした様子もなく、飄々とした態度だった。
「……本当の目的は何ですか?」
フィルは眉をひそめ、上司に向かって疑いの視線を向けた。
カイルは心外だとばかりに、おどけて肩をすくめた。
「休暇の任務は順調か、気になってね」
相変わらずつかめない人だと、フィルは思った。
視線だけで昨日目を通した書類を探す彼に、カイルは思わず笑ってしまう。
「ま、もう少し元気になったら、ミツキちゃんと出かけたら?」
茶化すような局長の明るい声に、フィルは何も言わずに視線を落とした。
様子が変わった彼に、カイルは目をしばたかせた。
精霊の声が聞こえなくなった部屋に、ぼりぼりと局長の咀嚼音が響く。
フィルは、ログハウスにいる彼女の姿を思い描き、その心地よさと罪悪感に眉をしかめた。
「彼女は……ここに居ても……いいんでしょうか」
フィルはあの事件以来ずっと考えていたことを、ぽつりと口にした。
随分弱気な顔をした彼を、カイルは興味深そうに見つめた。
「また何か起きた時、候補である自分が守れるか……」
未来を想像するたび、心臓が冷えた。
フィルは苦しそうな表情で、手を握りしめた。
「この山に縛り付けず……降りてもらった方が……」
いいのかもしれない、と続く筈の言葉は、紡げなかった。
霧神様の企みに巻き込まれたり、怖い目に遭う前に、手放さなければいけないと、頭で理解していた。
なのに、——離れがたい。
後戻りはできないほど、彼女に惹かれている。
彼女の幸せを誰よりも祈っているのに、矛盾している。
どうしようもない堂々巡りに、フィルは項垂れた。
「この山を降りても、彼女は狙われるでしょうね」
フィルは想像通りの言葉を局長に言われ、唇を嚙みしめた。
神の力と混ざり合った満希の力を狙う者は、後を絶たない筈だ。
「まあ、ミツキちゃんがどこに行っても、他の局員が彼女を守るだけさ」
それでもいいのかと問うように、カイルの瞳がフィルを射貫いた。
フィルはいい案だと思った——筈なのに。
彼女の隣に立つ自分ではない誰かを想像してしまい、胸が苦しくなる。
「ちゃんとこの前守りきれたじゃない。次もできるでしょ?」
「あれは……局長のおかげです」
「おれぇ?」
カイルは息を詰めた。
責務に押しつぶされ、完全に自信を喪失している。
好きな子を一人で守り切れなかった男心に気づき、局長は苦笑いをした。
すっかり、人間らしい一人の男になった。
幼い頃から彼を知るカイルは、思わず目尻を下げた。
「あれこれ考えるのはいいけどさ、本人の意思を聞かないと」
「え?」
カイルが視線を向けた先、玄関へとつながる扉が、カチャリと開いた。
「あの……ただいま……戻りました」
仕事から戻った満希は、遠慮がちに部屋に入ってきた。
フィルはぎょっとして、思わず自分の口元を手で覆った。自分の気持ちは、口にしていない……はず。
ぎこちない沈黙の中、ガサガサとお菓子を開ける音がしきりに聞こえた。
満希は、フィルの気持ちを知って心が痛くなる。
「私は……」
深呼吸をして、フィルを見た。
勇気を振り絞るように、パンの入った袋をぎゅっと握った。
「……霧神様に会えて……ここに来て、よかったと思ってます」
満希はログハウスの匂いを胸いっぱいに吸い込むと、心がほどけていく。
パンの袋を握る手に力を込め、心に閉じ込めていた言葉を絞り出す。
「……前の世界に、未練はあります。でも、今の私は……」
クロエにバレてしまった恋心を思い出し、満希はためらうように口を閉じた。
自分の気持ちを隠すように、慎重に言葉を選んだ。
「……毎日が、楽しいです」
噛みしめるような、か細い声だった。
面と向かって幸せだとは言えず、恥ずかしそうに目を逸らした。
カイルは初めて会った頃よりも、ずっと表情豊かになった彼女をじっくりと眺めた。
「この世界に君を呼んだのが、霧神様だったとしても……許せるの?」
ぽつりとこぼしたフィルの言葉に、満希は目を丸くし戸惑った。
結月や祖母の顔が脳裏に浮かんだ、そのときだった。
「それはあり得ない」
カイルはきっぱりと言い切り、2人は目を丸くした。
「神様が裏人を呼べたら、この世界は裏人だらけさ」
以前、ほかの裏人がやって来たのは十数年前だと聞いたことを、満希は思い出した。
「裏人が何故やって来るかは、きっと本人だけが知っている。神様を疑うのは冒涜だよ」
フィルは何も言えずに眉をしかめた。カイルの言う通りだった。
しかし、あの気まぐれな神様が、満希にだけ甘えて信頼を寄せる姿には、腑に落ちないものがあった。
針が落ちた音さえ聞こえてしまいそうな静寂の中、フィルはしかめ面で重たい口を開いた。
「あの日……僕一人では、上手くできなかったんだ」
苦痛に顔を歪めるフィルを見て、満希も胸を痛めた。
あの日の彼の傷は、全く癒えていないことを思い知る。
「当たり前ですよ」
満希が静かに呟いた。
驚くほどおだやかな声に、フィルは伏せていた目を彼女へ向けた。
「立派な舞巫女の妹も、ひとりでは舞えません」
過去をたどるように伏せられていた瞳が、やがてまっすぐフィルを見た。
衣装や祭壇を整える人、神楽を奏でる人たちがいて、妹が舞う。
「皆がそれぞれの役割を果たして、彼女は初めて舞えるんです」
彼女の舞を久しぶりに思い出した満希は、懐かしむように目を細めた。
「一人で、全部上手くできなくていいんです」
満希は人に頼ることは苦手だが、すべてを背負おうとしたことはなかった。
人一倍真面目で一生懸命なフィルに、やさしく笑いかける。
「同じことが起きても大丈夫なように、二人で対策を考えませんか?」
満希には特別な力は無い。
だが、重荷を分けてもらうことはできる。
彼女はフィルの力になりたいと心の底から願った。
満希は偉そうなことを言ったと自覚し、一歩下がった。
「今は……まだ思いつきませんが、でも考えます」
遠慮がちに言葉を紡ぐ彼女の声は、真っすぐに響く。
「諦めません」
背を伸ばして言い放つ彼女は、凛々しかった。
しっかりと前を見据えた彼女に、フィルは言葉を失った。
「……なので……」
歯切れ悪く言葉を切ると、満希は視線をあちこちにさまよわせた。
フィルと目が合うと、眉尻を下げた。
「行き先が決まるまで……もうすこし、ここに居てもいいですか?」
遠慮がちな彼女にとって、それは勇気のいる特別なお願いだった。
フィルは何も言えず、呆然とした。
——彼女は望んでここにいる。そう感じて、彼の胸が震えた。
フィルは張りつめていた力を抜き、彼女の願いに頷いた。
「ま、そんなに背負わなくていいんじゃないの」
ぽん、と背中をカイルに軽く叩かれ、一部始終を見守られたフィルは恥ずかしくなった。
あの日から胸にこびりついていた痛みが、彼女のまっすぐな言葉に少しずつほどけていく。
居たたまれなくなり、項垂れて赤い顔を隠した。
カイルは、項垂れたフィルの背中をもう一度強めに叩き、転移魔法で去っていった。
守らなければならないと思っていた彼女は、一緒に考えて戦おうとしてくれる。
フィルはじんじんと痛む肩を押さえ、口をつぐんだ。
気恥ずかしい沈黙が降り、満希は皺だらけになったパンの袋を持って台所へと足を向けた。
「……ミツキ」
低い声で名を呼ばれ、心臓が跳ねた。
視線が交わると、フィルはすぐに目をそらした。
何かを言いづらそうに、唇が開きかけては閉じる。
「今朝のおやつ……また作ってくれるかな?」
フィルは、ぶっきらぼうな声で呟いた。
可愛らしいおねだりに、満希は目をぱちくりとさせ、笑みがこぼれた。
まるでここにいてもいいと、言っているみたいだ。
胸がこそばゆくなり、大きく頷いた。
満希の笑顔を見て、彼は胸の奥の重石が少しだけ軽くなる。
——もう少しだけ。
もう少しだけ、この時間が続けばいい。
そんな願いが、フィルの中で育っていた。




