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きみがいる世界 34


 頬から伝わる冷たさに、意識が浮上する。


「また熱出てる……」

 満希の心配そうな声が、遠くで聞こえる。

 体温が奪われていく心地よさに、フィルは意識を手放した。


 

 

 次に目を覚ましたとき、フィルは天井を見つめた。

 今度は頭がはっきりとしていた。


 汗ばんだ頬を、風が撫でる。

 

 窓に目を向けると、風でカーテンがふわりと舞い、山の匂いが入ってきた。

 部屋には強い光が差し込み、時計を見れば正午過ぎだった。時間感覚がおかしくなりそうだ。

 

 大きな伸びをすると、ベッドの端に丸くなっている霧神様を見つけて目を丸くした。

 彼女がいないのに部屋に入ってくるなんて、珍しい。

 

 満月色の瞳と目が合うと、「ワンっ!」と一声鳴いた。

 すると、すぐに階段を上ってくる音が近づいてきた。


 

 少し開いた扉の隙間から控えめにノックが聞こえ、満希が顔を出した。

 

「フィル、体調はどうですか」

「あ、うん……少しだるいくらいかな」


 満希は、家主が起きたことを知らせたアサギリの頭を撫でた。


 

 スリッパがリズムよく床を叩き、彼女は慣れた様子でフィルの額に触れた。

 冷たい小さな手のひらに触れられ、フィルはぎょっとする。

 

「下がりましたね……よかった」


 まどろみの中、額が冷たくなる感覚を朧気に思い出した。

 彼女から小麦の匂いがした。フィルはなんとも言えない気持ちになり、視線を逸らした。


 明るい自分の部屋に違和感を抱きながら、カーテンを見つめる。

 時間を思い出して、はたと困惑する。


 

「……あれ?ミツキ、パン屋は?」

「あ、クロエが……えと、暫く忙しくないからって、勤務時間が短くなりました」

 

 満希はクロエの心遣いに、少し言葉を濁した。

 昼間に満希がいる理由を知り、フィルは納得したように小さく頷く。


 

 身体を起こした拍子に、寝間着がじっとりと肌に張りついていることに気づいた。

 汗ばんだ首元に思わず眉をひそめる。


「……風呂、入ってこようかな」


 満希は「風呂の用意をしてきます」と言い残し、部屋を出ていった。

 軽やかなスリッパの音が、階下へと遠ざかっていく。

 フィルはその背中を、ぼんやりと見送った。


 

 

 満希は鍋の中を覗き込み、美味しそうな料理に口元を綻ばせた。


「わふっ」

 長いこと台所に立つ彼女の足元で、アサギリはずっとお行儀よく座り込んでいた。

 

 たまに切った野菜が床に転がると、犬は彼女の声に聞こえないふりをして、一目散に食べてしまう。

 玉ねぎらしき匂いがする野菜だけは絶対に落とさないよう、真剣な手つきで包丁を動かしていた。


 

 風呂から出たフィルは、居間のソファで本を読み始めては、すぐに閉じた。

 調子が万全ではないせいでぼんやりする彼に、満希はそっと声をかける。


「ごはん、食べられますか?」

「ん?……うん、そうだね。食べようかな」


 

 フィルはふわふわした心地で、ソファから立ち上がった。

 食卓に並べられた、雪山のような料理を見て彼はきょとんとした顔をする。

 

「これ、オカユ?」

「ちょっと違います」


 フィルが真っ白なそれを口に含むと、濃厚で香ばしい香りが鼻から抜けていった。

 スプーンを運ぶ手が止まらなくなり、無心に料理を平らげていく。

 

「すごく美味しい!」

「リゾットっていいます。……ふふ」

 満希は美味しそうに食べるフィルに、思わず笑いがこぼれた。


 仕事帰りに買ってきたヤギのミルクを使ったリゾットは、満希が普段食べていたものより口当たりが優しい。

 チーズのコクや、香ばしい野菜の味が食欲を誘い、大きな肉が入っていないのに満足感があった。


 フィルは目をこらすと、中には小さな野菜がたくさん紛れていた。

 面倒で大きく切り刻んだ自分のスープを思い出して、思わず感心する。



 リゾットはあっという間に無くなってしまった。

 夢中になって空になった皿を、フィルは我に返って見つめた。

 

 腹が満たされたというのに、身体は気だるくいつもの調子じゃない。

 最近は全く風邪をひいていなかったせいか、慣れない感覚だった。


 

 ふと、部屋に紛れ込んだ精霊が舞っていることにフィルは気づき、目で追った。

 

「……静かだ」

 満希はリゾットを食べながら、ぽつりとこぼれた彼の声に耳を傾けた。

 

 

「……精霊の声が、聞こえない」

 

 フィルがスプーンを指先でいじると、陶器の当たる音が響いた。


「いつも、うるさいくらいなのに……」

 彼が瞼を閉じると、数の少ない長いまつ毛が影を落とした。

 聞こえない理由は、魔力が少ないせいかもしれない。

 

 満希は、いつものおだやかな家に耳を傾けた。

 風の音や鳥の声。時折アサギリの爪が床にあたる音が僅かにする。

 


「……静かな山も、素敵ですよ」


 フィルは静まり返る部屋を見渡し、普段満希の聞いている音を耳に傾けた。

 陽の差す明るいログハウスがいつもとは別物に見えてくる。


 

「僕は、……なんだか怖いや」

 

 初めて感じる、静かな山。

 まるで一人きりになったような錯覚に陥り、フィルはスプーンを強く握った。

 

 一時的なものの筈。

 頭ではわかっているが、理屈じゃなかった。


 

 満希は、眉をしかめたフィルをじっと見つめた。

 

 いつもの世界が変わって、戸惑っている。

 それは、一度この世界に来たとき体験したものだった。

 どんなに心細いか、容易に想像できた。

 

 食べ終えた食器にスプーンを置き、彼女は立ち上がった。


 

「フィル、甘いもの食べませんか?」

「……え?」


 フィルは呆気にとられ、台所に向かう満希に目を奪われる。

 鍋をかき混ぜる心地よい音が聞こえ、しばらくしてから真っ赤な果実を持って戻ってきた。


 

「本当は冷やした方が美味しいんですけど、味見しましょう」

 

 皿に盛られた大きな果実を、フォークで半分に割いて取り分けた。

 

 フィルは艶々で鮮やかな赤い果実を見つめ、フォークで刺して口に運んだ。

 やわらかな舌触りの果実はすぐに形が崩れ、控えめな甘さだった。


 

「……え、おいしっ……」

「コンポートです。鍋で砂糖と煮込んだら、真っ赤になったんです」

 

 満希は桃のような果実を、フォークで更に小さく切り分けた。


「ケーキに乗せたり、酸味のあるものと混ぜると美味しいんですよ」

「物知りだね……」

「ふふ、甘いものには目がないんです」

 

 満希はゆっくりと、長く楽しむように食べた。

 彼女の言う通り、本当に甘いものが好きそうだ。


 精霊が、フィルのまわりをパタパタと羽ばたきながら皿の中を覗いた。

 いつものように、いいなと言ってるに違いない。


 

「精霊さんも、寄ってきちゃいましたね」

 満希は甘いものを口に含み、幸せそうに笑った。

 

「……そうだね。たくさんいる……」

 フィルはその精霊を見つめて、眉を下げた。

 声は聞こえないけど、目の前にいつものみんながいた。

 


 

 満希が片づけている間、フィルは居間で口の中が甘いまま、本を開いたり閉じたりした。

 急な休みに、何をしたらいいかわからない。

 いつもであればあの湖に行くが、重たい身体のせいで億劫だった。


 本を数行読んでも、頭に入ってこない。

 耳が痛いほどの静寂に落ち着かず、ため息を吐いた時だった。



 ガッシャーーン。

 突然の大きな音に、フィルは飛び上がった。


「あ…………やっちゃった……」

 

 満希の声が、微かに聞こえた。

 フィルは目を瞬かせ、思わず笑ってしまった。

 さっきまで、嫌になるほど静かだったのに。


 音のした方へ向かうと、満希はコンロの下にあるオーブンへ頭を突っ込んでいた。

 思いもしない姿にフィルが驚いていると、彼女はすぐに中から頭を出した。


 

「怪我してない?」

「あ……はい。ごめんなさい、落としちゃって」

 

 彼女はオーブンの天板をゆっくりと持ち上げた。

 重たい天板をコンロに置くと、額に浮かんだ汗を拭った。

 

 フィルは真っ黒な雑巾があちこちに散らばっていることに、気づいた。


「掃除してるの?」

「はい、使ってみようと思って」

 フィルも一緒に中を覗き込むと、すすが舞った。

 焦げた匂いと洗剤の匂いが混ざって鼻を刺す。

 

「長いこと使ってないけど……動くかな?」

「……どうでしょう……」


 

 ふと、満希を見ると、顔がすすだらけになっていた。

 いつも張り詰めた背中は気が抜けたように丸くなっている。

 

 力を抜いた彼女に気づき、フィルは驚いた。

 

 

 彼女と暮らし始めて、ひと月が経とうとしていた。

 自分もいつの間にか、彼女の隣は当たり前になっていた。

 最初は同居に慣れないと悩んだはずが、いつからこんなにも馴染んでいたのだろうか。

 

 フィルは胸の奥がくすぐったかった。

 いつもあれこれ考えていたことが嘘みたいに、フィルは自然に満希へと手を伸ばした。


 

「……ミツキ、動かないでね」

「?はい」


 フィルは少しだけ悪戯に笑い、ちょんと彼女の鼻をつまんだ。

 満希は、目を真ん丸にした。


「……ふっ」

 手を離した彼は、指先が黒くなったのを見て吹き出した。

 

 

「ふ、あはははっ」

 

 フィルは我慢できなかったように、大きな口を開けて笑った。

 満希は慌てて自分の鼻を押さえて、無邪気に笑う彼を軽く睨んだ。

 

 

「……な、なんですかもう」

「だって、すすがあっちこち付いてるよ」

 

 満希の怒ったような声を、全く気にも留めない。

 翠玉色の瞳を楽しそうに細めて、フィルは袖で彼女の頬を拭った。

 喉の奥で笑いを堪え、まだ肩を震わせている。

 

 仕事中の顔でもなければ、村人に向ける顔でもない。

 無邪気な子供のような笑顔に、満希の頬が、みるみるうちに赤くなっていく。



「あ、洗ってきます」

 

 満希は居たたまれなくなり、その手から逃げて洗面所に向かった。

 フィルは、汚れた袖のすすを見て、破顔した。


 

 すすを洗う水の音が、微かに聞こえる。

 

 居間で一緒に楽しそうに揺れる精霊を見つけて、フィルは嬉しくなる。

 いつものログハウスの光景だ。

 

 

 彼女のいるこの家は、静かであたたかい。

 フィルはそのことに今更気づき、胸がじんわりとした。

 

 

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