名前のない祈り 33
コンロの傍に置かれたランタンが小さな光を灯し、暗がりの中満希の手元を照らした。
火にかけたお粥が温まり始め、ぐつぐつと音を立て始めている。
ランタンの光の下、うっすらと鍋から湯気が揺らめいた。
香ばしい匂いが部屋に満ちて、誘われるようにアサギリが足元にやってきた。
満希は鍋を静かに見つめて、お玉をつよく握った。
「……やって、しまった……!」
先ほどのことを思い出し、力が抜けたようにしゃがみこんだ。
勢いで男の人を抱きしめるなんて、人生で一度もしたことがないのに。
らしくない行動に、顔が熱くて仕方ない。
アサギリはしゃがんだ満希を、熱心にくんくんと嗅いだ。
ふさふさの毛に埋もれると、自分の耳に心臓の音が大きく聞こえてくる。
思い返せば、前から彼のあたたかさに焦がれていた。
今更気づいた恋心をどうしたらいいかわからず、瞼を閉じて深呼吸をした。
(……平常心、そう、平常心)
すると、瞼の裏を突き刺すような白い光が走る。
満希は目を瞬かせ、薄暗い天井を見上げた。
「……雷?」
独り言を呟き、キッチンから顔を出して居間を見渡した。
薄暗い居間にある魔法陣の上、着崩した深紅の制服を身に纏う男と目が合った。
「あ、こんばんは。フィル起きたかい?」
「……か、カイルさん……こんばんは」
カイルは肩からずり落ちた上着を引き上げ、ひらりと手を振った。
満希は慌てて立ち上がり、転移魔法でやって来た彼の傍に寄った。
「こんな時間に悪いね。フィルの顔見ようと思ってね」
「いま起きたところです」
「お、よかったよかった」
目を細めたカイルを、満希はまじまじと見つめた。
夜は更けたが、彼はまだ制服姿だった。
心配で仕事の合間を縫ってまで、フィルの顔を見に来たのかもしれない。
変わった人だけど、最初に会ったときから人の良さが滲み出ていた。
なんだかんだで素敵なフィルの上司に、満希の心がじんわりとした。
「…………あれ、なんか美味しい匂いがするね」
2人はキッチンを振り返り、小さな光の下でぐつぐつ煮込まれたお粥を見た。
「オカユ、美味しいじゃないか!」
「よかったです」
「いや~ミツキちゃん料理上手!」
くつろぎ始めた上司を、フィルは呆れたように見た。
何故、局長が当たり前に自分の家に上がり込んでいるのか、さっぱりわからない。
「カイルさん、まだありますからどうぞ」
「ほんとうかい?もっと食べていい?」
満希は、すんなり客人を迎えていた。
上司と好きな子が少しだけ打ち解けている。
複雑な心境に、フィルはスプーンを手持ち無沙汰に回し始めた。
「それで気分はどうだい、フィル」
「……おかげさまで」
不服そうにしたフィルを見て、カイルは思わず吹き出した。
いつも真面目に義務的な報告をする彼とはまるで違う。
山神様も守護人も、彼女に首ったけのようだ。
「それで……何か用でしたか?」
「顔見に来たんだけどね。起きたなら、ついでに新しい任務を伝えよう」
カイルは、口の端についたお粥をぺろりと舐めた。
「フィルは魔力が戻るまで、しばらく休暇~」
「は?!」
軽い局長の言葉に、フィルは信じられないと目を瞠る。
働き始めてから、まともな休暇を取ったことはなかった。
「や、山はどうするんですか」
「山神様もいらっしゃるし頼めないかな?人が必要であれば寄越すよ」
いつの間にか、アサギリは満希の膝の上に顎を載せていた。
満希が応援するように頭を撫でると、得意げに鼻を鳴らした。
言葉を失うフィルを、満希は遠慮がちに覗き込んだ。
「……フィルここは……お言葉に甘えさせていただきましょう?」
「うっ」
満希が心配げにフィルを見上げている。
そんな顔で見つめられれば、フィルは渋々頷くしかなかった。
「事件の諸々は本部で片づけておくよ。ちなみに、アルフレイムの不可侵条約はどうするの?」
「破棄です。通告をすぐに送ります」
フィルは淡々と告げ、眉をしかめた。
「代々つづく条約ですが、破られた以上もう意味はない」
フィルは憤慨した様子で腕を組んだ。
予想通りの反応に、カイルは口元を綻ばせた。
「魔物が少ないタイミングを、計画的に狙ったのだろうね」
「はい。面倒くさい貴族の相手もしないで済むし、仕事も減るので一石二鳥です」
フィルとカイルはいつの間にか仕事をしているときの顔だった。
満希はアサギリの頭を撫で、あの夜のことを思い出していた。
カイルは彼女の近くにあった鍋に手を伸ばす。
「ミツキちゃん、なにか気になるかい?」
満希は、遠慮がちに視線が泳がせた。
「あの……精霊譲渡許可制度っていうものは……何ですか?」
満希は、オブリビオン侯がこの山に入った理由がずっと気になっていた。
制度の名を聞いた、フィルの指がぴくりと動いた。
「その名のとおり、精霊を運ぶ許可をもらう制度さ。精霊不足の今、無許可で捕獲や移送はできない」
「……保護や生態調査による研究は、許可書があればできるんだ」
カイルが3杯目のおかゆを椀によそうのを、満希はじっと見つめていた。
「簡単に申請できるせいで、悪用する事業者が多くてね。少し前にフィルが改正したのさ」
「登録事業者を一度洗い直して、担当員による実地監査も始めることにしたんだ」
満希は、制度を改正したフィルへ尊敬の眼差しを向けた。
普段山を駆け回っているだけではなく、制度まで変えてしまうなんて。
彼女の視線に居たたまれなくなったフィルは、苦笑いした。
「精霊を守るための制度なのに、密輸が許せなかったんだよ……」
その言葉はフィルらしく、満希は口元を綻ばせた。
カイルは空になった椀を置くと、上着の裾を翻し、驚くほど軽い身のこなしで立ち上がった。
「ごちそうさま。そろそろ帰るよ、夜遅くにお邪魔しました」
「……次来るときは、文をくださいよ」
「え~~面倒だなあ」
カイルの足音が階段の下へと消え、賑やかだった部屋から音が去っていった。
次第に窓の外から夜の深い虫の音が、じわじわと染み込んでくる。
部屋に残った鍋には、お粥はきれいさっぱりなくなっていた。
膝元にいたアサギリはいつの間にかいない。
満希は、まだあたたかさが残る椀をぎゅっと手のひらで包んだ。
「フィル……昨日は、ありがとうございました」
満希は面と向かってお礼を告げると、彼は目を丸くした後に顔を歪めた。
「お礼を言われること、してないよ……」
フィルの声は、小さい。
苦しそうに視線を落とした彼を、満希は不思議そうに見た。
「僕ができることを今までしてきたつもりだったけど……全部裏目に出た」
フィルの作った結界は、壊された。そもそも霧神様の結界に比べれば劣る。
良かれと思って制度を改正した。それなのに、思いもよらない形でこんな事件を許してしまった。
「候補でしかない僕は……やっぱり守りきれないのか?」
フィルは自分に問いかけるように、呟いた。
オブリビオン侯に繰り返し言われた言葉が、喉の奥でずっと刺さっていた。
満希は、後悔しているフィルを静かに見た。
揺れる翠玉色は、儚くも真っすぐでとても綺麗だ。
「……精霊も、私も。守ってくれましたよ」
彼女のおだやかな声に、フィルは息を呑んだ。
彼が持っていたスプーンとお椀を受け取ると、食器を重ねる音が部屋に響いた。
「フィルがカイルさんを呼んだから、大事にならずに済みました」
フィルが頭をあげると、夜の森の色をした彼女の瞳は、泣いた涙でまだ潤んでいる。
「私を見つけてくれたのも、フィルです」
喜びをかみしめる声に、フィルはぽかんと満希を見つめた。
「事実を変えないでください、次期守護人さま」
涼やかな瞳が細められ、静かな声がフィルの耳をくすぐる。
彼女の慈悲深い心に触れて、フィルは言葉が出なかった。
(一人では完璧にできなかったけど……ちゃんと守れてたんだ)
あの日の反省点はキリが無いが、拙いながらもこの山も満希も結果守れた。
その事実に気づいたフィルは、呆然とした。
「改めてフィル、助けてくれてありがとうございました」
満希はやっと言えたお礼に、満足そうにした。
彼は観念したように、自分の弱気な思考を払った。
「……うん、無事で……よかったよ」
満希はシーツの皺をそっと手のひらで伸ばした。
まだ微かに残る彼の体温をそこに閉じ込めるようにして、背を向ける。
「ゆっくり休んでくださいね、おやすみなさい」
「…………おやすみ」
満希が灯りを消すと、フィルは布団を引き上げ、ぶっきらぼうに呟いた。
布団の中で、きつく瞼を閉じる。
カッコ悪い。
そう思うのに胸があたたかい。
お薬みたいな、彼女のことば。
フィルは恥ずかしくなって、布団を頭まで更に引き上げた。




