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名前のない祈り 32


 

「どうしたのこれ、傷だらけじゃない」


 閉店作業を終え、クロエは更衣室で着替えていた満希に後ろから声をかけた。

 満希は鏡をのぞき込むと、頬や身体中に細かい小さな傷が走っている。

 真夜中に森を全力疾走してできたものだった。

 

「ここ、すごい痣になってるよ?何があったの?まさか、フィル?!」

 

 クロエは彼女の背中を恐る恐る触れ、顔が蒼白になった。

 話があらぬ方向に行きかけていることに、満希は慌てて止める。


 

「その、実は——」


 満希は昨晩のことを説明した。

 クロエの端正な眉はこれでもかと皺を深くし、わなわなと震えはじめる。


 

「あんの男……パンと一緒に攪拌すればよかった!!」

「む、無理ですクロエ。それに、もう魔法管理局に連行されました」

 

 満希がなだめると、クロエは口を尖らせ不服そうに事後報告を聞いていた。


 

「でも、アルフレイムの貴族が不可侵条約を破るなんて……」

 クロエは神妙に顔を曇らせた。愁いを帯びた横顔すら美しく、満希は目を奪われる。

 

「あの……アルフレイムって、?」

「となり街よ。黒霧の森を挟んだ奥にあるの」


 クロエは霧神が住む山とは逆の方向を指さす。

 どこかで聞いたことのある森の名に、思考を巡らせた。


 

「そこは魔物がよく出てね。霧抱きの山から離れてるけど、守護人が管理してるのよ」


 満希がこの世界に来たばかりの頃、枝のような角を持つグラルドが出た森を思い出した。

 リリンやサリーに出会い、初めてフィルに弱音を吐いた日だ。


「その代わり、『山には入らないでね』という不可侵条約が、守護人とアルフレイムとの間にあるのよ」


 つまりオブリビオン侯は、長年守った条約を犯したことになる。

 満希は、指さされた方をじっと見つめた。


 

「それで、フィルは報告で忙しいとか?」

「いえ……少し具合が悪くて」

 

 苦しそうな彼を一人置いてくるのは憚られたが、アサギリに背中を押されていつものようにここに来た。

 カイルも慣れたように大丈夫だと言い、アサギリも気にも留めていない。

 それでも心配だった。

 

 クロエは、満希が一日中上の空だった理由をようやく理解し、苦笑いした。


 

「しばらくは早めに上がって、フィルの看病してあげたら?」

「えっ……でもこの前休んだばかりで……」

 

「私も幼馴染が心配だよ。私の代わりに診てあげてくれない?」


 満希が断れない言葉を、クロエは知っている。

 困ったように眉を八の字にし、小さく頷いた。




 一人で長い帰り道を歩いた。

 夕日が木々を赤く染め上げ、木の間から茜色の光が差し込む。

 薄暗くなりはじめた山道は、数時間しか眠っていない重たい身体には堪えた。


 神様の境界線を越えると、山の匂いが鼻を掠め、眠った彼が心配になり早足となった。


 

 やっとの思いでログハウスに着き、ローブを玄関の壁にかけた。

 物音のしない家では、精霊が優雅に舞っていた。

 

 満希はその足でフィルの部屋にまっすぐ向かった。


 部屋に足を踏み入れると宵闇に包まれてよく見えない。

 薬草の匂いは、彼の記憶と昨晩の記憶が入り混じり、慌てて頭を振った。

 

 

 暗がりにベッドで眠るフィルの呼吸は穏やかだが、額にはうっすら汗が滲んでいた。

 彼の額に手のひらを当てると、昨日より熱は下がったことを確認し安堵する。

 持ってきた濡れたタオルで、彼の汗を拭った。


「……少しはよくなったかな」

 満希の指先は、フィルの額に汗でへばり付いた髪を優しく梳き流した。

 

 不安そうな満希の頬を、アサギリのふさふさの毛が掠める。

 アサギリが隣に来たことも気づかず、目を丸くした。

 

 犬は甘えるように身を寄せて、その目が爛々と輝いていた。時計を見ると夕ご飯の時間だ。


「おなかすいた?」

「ワンッ」

 

 アサギリの頭をやさしく撫で、1階へ降りた。

 自分のお腹が空いたことに気づき、余った米でおかゆを作ることにした。

 料理している間も風呂に入っている間も、フィルのことが心配で落ち着かなかった。


 

 

 満希は寝る前にもう一度フィルの部屋を覗いた。もう何度目かは覚えていない。

 外から風で葉がざわめく音や虫の鳴く夜の声が聞こえてくる。

 

 床に膝をついて彼をのぞき込むと、精霊が彼の顔をぼんやり照らす。

 

 

 フィルは丸一日、目を覚まさなかった。

 

「……フィル」

 小さく呼んでも、彼はぴくりとも動かない。

 人形のように眠る彼が、本当に呼吸をしているか思わず確かめた。

 

 このまま眠ったままだったら。

 嫌なことを考えて、落ち着きなく爪をいじる。

 

 そんな満希を励ますように、精霊が踊るように周りを舞った。


 薄暗いフィルの部屋の中、精霊の光がぼんやり浮かぶ。

 その淡い光を見ると、昨晩の恐ろしい出来事を思い出す。

 

 

「……精霊さん、私、何もできなくてごめんなさい」

 

 指をくわえて、震えることしかできなかった。

 自分が非力だと思い知り、両手を悔しそうに握った。

 

 落ち込む満希の周りを、大勢の精霊が囲む。

 突然たくさんの光に照らされた満希は、息を呑んだ。

 精霊が満希を鼓舞するように舞い、何かを言っているみたいに明滅している。


 まぶしすぎる視界に、目がちかちかした。

 

「ワンッ!」


 咎めるようにアサギリが鳴くと、精霊は蜘蛛の子を散らすように離れた。

 まぶしかった視界が真っ暗になり、部屋の隅でぼんやり光が照らされた。

 彼らなりに何かを伝えてくれる気がして、満希の心があたたかくなるのを感じる。


 

 

「………………ん」

 フィルのうめき声に気づき、満希は息を呑んで声の主を振り返った。

 

 精霊が心配そうにフィルを覗き込み、彼の顔をぼんやり照らす。

 彼は眩しそうに目を瞬いた。


 暗がりの中、寝ぼけた彼が真っ先に満希の姿を捉えると、目を丸くした。

 そして、すぐに力が抜けたように笑った。


 

「……よかった、ミツキなんとも無さそうで」

 

 淡い光を帯びた翠玉色の瞳が、やさしく目尻を下げた。

 待ちわびた彼の声に、満希の鼻の奥がつんとして視界が歪む。

 

「……あれ、でもなんか疲れてない?ちゃんと休んだ?」

 

 いつもの調子のフィルだ。

 安堵した満希の瞳から、静かに大きな雫がぼたぼた落ち始めた。


 精霊の光を受けてきらめく涙にフィルはぎょっとし、完全に頭は覚醒して飛び起きた。


 

「ど、どうしたの?なんで泣いてるの?」


 困ったやさしい声が、頭から降ってくる。

 震える手で自分の涙を拭い、苦笑いをした。

 

 この世界に来てから、涙の栓は緩くなってしまった。

 きっとそれは、泣いてもいい場所を見つけたからに違いない。


 

 満希がぐずぐずに泣く姿を、フィルは困ったように見つめた。

 精霊の光できらめく宝石のような、鮮やかな翠玉色。

 気遣うやさしい瞳と、目を合わせた。

 

 満希はその視線ごと、愛おしくなる。


 

 静かな部屋の中、ぎしりとベッドの軋む音が響いた。

 満希は雨上がりの森の匂いに埋もれ、——勢いよく彼を抱きしめていた。

 

 フィルはやわらかな感覚に包まれ、声を失った。

 満希ごと倒れそうになった身体を、片肘でなんとか支えた。

 

 

「ミ、ミツキ?!?」


 突然の抱擁に、フィルは思わず声が裏返る。

 満希は何も言わずに、縋りつくようにフィルの耳に額をこすりつける。

 その甘えるような仕草に、フィルは硬直した。


 彼女の長い髪から、風呂上りの嗅ぎなれた石鹸の匂いがする。

 目の前の彼女の細い肩口を見つめ、頭が真っ白になっていく。


 どこに置けばいいか分からないフィルの両手が宙で彷徨う。

 気恥ずかしさを耐えるようにぐっと目を閉じた。


 ——彼女は怖い目に合ったんだ。

 フィルの手が彼女の背中に恐る恐る、気遣うように触れた。

 すると、抱きしめる力が強くなり、フィルは息を詰めた。



「……フィルが……死んじゃうかと……」


 満希の全身が震えていることにフィルは気づいた。

 ふと、時計を見ると、針はずいぶん進んでいた。


(……ずいぶん眠ったな)

 彼女をひどく心配させたことを思い知る。

 

 フィルは、彼女を悲しませてしまったことに申し訳なさを覚えた。

 その反面、不謹慎にも彼女がこんなにも心配してくれたと思うと、にやけてしまいそうだった。

 

 

「……いろいろビックリしたね」

 苦笑いする彼の声が腕の中からくぐもって聞こえ、満希はぎこちなく背中を撫でられる。

 フィルは満希が攫われたことを怒らずに、気遣ってばかり。


 もう会えないと。

 このぬくもりを、忘れるかと思った。

 

 彼の身体があたたかくて、涙が止まらなくなる。


 

「……あのとき、呼んでくれてありがとう」


 フィルがぽつりと、呟いた。

 彼は、港町のあの些細な約束を覚えている。

 胸が熱くなるのを感じてフィルの首にぴったり寄り添い、全身で体温を感じ取った。

 

 

 あたたかい体温に、胸が焦がれる。

 彼のやさしい声は、脳が溶けたみたいにくすぐったい。


 雨上がりの森の匂いも、翠玉色の瞳も。

 やさしい彼の声も、全部もっと近くで感じていたい。


 その感覚は初めてだったが、すぐに理解できた。


 

 (ああ、私はフィルのこと——)

 

 自分の恋心を認めた途端、涙とは違う熱が胸いっぱいに広がる。

 満希はその切なくて愛おしい熱の心地よさに、静かに目を閉じた。


 


 

 ぐーーきゅるる。

 

 部屋に盛大な腹の虫が響く。

 耳が痛くなりそうな沈黙の中、フィルが居心地悪く身じろいだ。


 

「……ごめんミツキ、僕……今日何も食べてなくて」

 

 我慢できなかったことに、フィルの顔が熱くなっていく。

 満希は思わず口元を綻ばせ、名残惜しそうに離れた。

 

 近すぎる満希にフィルは目のやり場に困り、ぎこちなく目を逸らした。

 彼の耳の先が赤く染まるのを薄暗い部屋でもよく分かった。


 

「おかゆ作ったので、持ってきますね」

「オカユ……?」

 

 フィルは、部屋から出ていく満希の背中を見送った。


 

 ぬくもりが残っている腕を見て、押し黙る。

 首元に触れた彼女の肌の感覚が胸をざわつかせる。

 華奢な身体で縋りつかれる感覚を反芻し、頭を抱えた。

 

 空気の読めない自分の腹に感謝したいような、したくないような気分だった。


 

「…………はぁ」

 フィルは、耳まで赤くした顔を布団に押し付けた。

 

 

 心配してくれた、それだけだ。

 うるさくて仕方ない自分の心臓を、何度も叱咤する。

 

 満希が戻ってくるまでに、この顔を何とかしなければ。

 フィルは仕事のことを何度も頭で繰り返し、冷静さを取り戻そうと必死になった。

 

 

 ――が、きつく抱きしめられたせいで、はっきりと覚えてしまった華奢で柔らかい身体。

 嗅ぎなれた薬草を混ぜた石鹸の匂いが、まだ残っていた。

 

 

 

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