名前のない祈り 30
アサギリは逃げた男を追い、フィルは家に向かって走っていた。
勢いよく扉を開けると、居間は真っ暗で物音が一切しない。
いつもなら聞こえるはずの、満希が台所に立つかすかな音や、衣擦れの音がしない。
2階へ駆け上がり、彼女の部屋を覗くがおだやかに眠る姿はない。
フィルの荒い呼吸が、静かに響く。
ふと、自室の扉が開いていることに気づき、淡い期待を持って、その部屋を覗いた。
床に本が散乱し、開け放たれた窓がカーテンを揺らして夜の霧が煙のように入ってくる。
様子が変わった自室を見て、血の気が引いていく。
すると悲しい声をした精霊が、窓から入ってきた。
「ミツキはどうした」
フィルは掠れた声で、焦ったように問う。
精霊は、散らばった本の辺りをぐるりと回る。
事情を聞いたフィルは、頭を殴られたかのように言葉を失った。
男たちに、ミツキが攫われた。
追いかけようとしたフィルの頭に、精霊の声が響く。
精霊は机上の守護人の印章の周りをぐるぐると回り始めた。
フィルは足を止め、印章を手に取る。
……使おうとしたのか。
この印章は守護人本人の魔力がなければ印は押せない。
それに気づいて、諦めた……?
精霊狩り。
そして、守護人の印章。
2つの点が、頭の中で一本に繋がる。
「まさか、精霊譲渡許可制度……?」
信じられないと目を瞠った。
それは、自ら制度改正を行ったばかりだった。
フィルは窓に向かって、指笛を勢いよく吹いた。その音は、郵便を運ぶ鳥を呼ぶときよりも長い。
やがて、窓の淵に小さな白いリスが現れた。
「大至急、頼んだよ」
フィルが指を鳴らすと、その白いリスは姿を消す。
彼は霧の山へ、踵を返した。
満希は、男たちに連れられ山を下っていた。
彼女の手は後ろ手に縛られ歩きづらい。その手綱はヴァンが握っていた。
途中でフィルに会えないかと期待したが、真っ白な霧の中それは叶わない。
「許可証は無理でしたが、この女がいれば大金が手に入るでしょう」
オブリビオン侯は独り言のように呟く。その声は機嫌が良く、上ずっていた。
「精霊はどうすんだ」
「少しくらいバレないでしょう。まあ、ほどほどにしますか」
満希は、寡黙なヴァンを盗み見た。
下山しながら精霊を見つけては、不思議な灰を撒いて捕らえていく。
一部始終を、満希は静かに見つめた。
その視線に気づいたヴァンは顔を逸らす。
「仕事だからな」
淡々とした言葉に、満希は眉を寄せた。
表情が見えず、彼が何を想っているかはちっともわからない。
「…………ひどい……」
満希の声が、震える。
山へ勝手に侵入し、フィルの大事な精霊を奪っていく。
さらに人身売買まで。非道極まりない。
「何故ですか?」
オブリビオン侯の声が、不思議そうに響く。
「精霊不足の今、需要のある場所へ商売をするのは普通のことです」
当然のことのように言い放つオブリビオン侯に、満希は眉をしかめた。
「精霊狩りも、バレなければ平気です」
慣れたようにそう言い放ち、男が常習犯であることを察した。
「お前も足がつかなければ、何も問題ありません」
罪の意識が全く無い人間を見て、満希は背筋がぞっとした。
満希や精霊を売り物としか見ないこの男に、話は通じない。
彼女は、震える口を閉ざした。
「それでは、あれを最後に回収しますかね」
オブリビオン侯は霧の中に身を潜める精霊を見つけ、ヴァンに向かって指を差す。
ヴァンがそちらに向かって歩くと、手綱を握られた満希も必然的についていく。
どうかあの子たちが逃げられますように、と満希は祈る気持ちで目を伏せた。
ふと、手元が自由になっていることに気が付き、縛られていた手元を振り返った。
後ろからついてきた精霊たちが、満希の縄を切っている。
「(精霊さん……!)」
以前フィルが『精霊は生きている』と言った言葉を思い出す。
今なら疑いもしない。
その精霊たちが誘うように、脇道へと逃げていく。
満希は迷うことなくその後ろにつづいた。
「おい、ヴァン!女が逃げたぞ!」
ヴァンは灰を撒くのを止め、繋がった手綱を手繰り寄せた。
霧に包まれたロープの先は、地面に落ちていた。
満希は恐怖を喉に押し込め、足を動かしていた。
斜面は走りづらく、生い茂った木と何度もぶつかりそうになる。
細い枝が肌を掠めていくが、気にしている余裕はない。
白く埋め尽くされた視界の中、精霊の光だけが頼りだった。
後ろからは、オブリビオン侯の怒声が聞こえる。
満希の足では、すぐにヴァンが追いついてくるに違いない。
荒い息が、静かな山の中に響く。
恐怖で竦んだ心は、今にも悲鳴をあげそうだった。
山の中は、濡れた土と深い緑の匂いに満ちて、彼の匂いに似ていた。
こんな暗い恐怖は、この前味わったばかりだったのに。
海の音が聞こえる港町の宿。
嵐の怖い日、雨の森の匂いがするあたたかな彼の熱。
——本当に困ったら、僕を呼んで。
彼のやさしい声が頭に反芻し、満希は大きく息を吸った。
「フィルーーーー!!」
満希の声が、山の中に響き渡る。
迷惑をかけてしまう。素直に言えない。そんなこと考えていなかった。
今すぐ、フィルに会いたかった。
後ろから、追いかけてくる音がする。
彼女の声を聞いた、ヴァンの迷いのない足音がすぐ傍に来ている。
それでも満希は、震えそうな全身に鞭を打って、精霊の後ろを追っていた。
突如、大きな壁にぶつかった。
満希は衝撃に備えて目を閉じた。だが、いくら待っても痛みはやってこない。
むしろ、何かに包まれて——嗅ぎなれた匂い。
「ミツキ、よかった……見つけた」
頭を上げると、びっしょり汗をかいて息を切らしたフィルがそこにいた。
満希は彼の腕の中にいることに気づき、視界が歪む。
——来てくれた。
「……フィル」
震えた声でもう一度彼の名前を呼んだ。
焦がれた彼の匂いに顔をうずめ、涙を隠した。
近づく足音に気づいたフィルは、彼女の肩を抱いて魔法を編む。
その杖先からは稲妻が走り、ヴァンの足を止めた。
辺りは霧で埋め尽くされ、視界が悪くお互い見えない。
しかし、彼女の濃い神の気配は、目印のように目立っていた。
先に霧を割いたのは、ヴァンだった。
刃を構えたヴァンを、フィルは無表情で射貫く。
フィルは指を鳴らすと、周りの木々が地面を揺らす。
ヴァンは、膝をついた。
霧の中、風を切る音と精霊の声が聞こえ、フィルは身体を逸らした。
飛んできたナイフが、フィルの肩を走った。
フィルの心臓がどくりと大きく波打つ。
世界が一回転する。
立っていられない。
腕の中にいた満希は、崩れ落ちるフィルを支えた。
「フィル?!どうしたんですか」
顔色がみるみる蒼白になり、杖を持つ手がブルブルと震えはじめた。
だが、満希の肩だけはしっかりと握っている。
「魔法使い用が、まだ残っていてよかった」
動かなくなった木の間を抜け出したヴァンは、フィルを見下ろした。
投げたナイフを拾い、器用にそれをくるりと回してバッグにしまう。
毒か、しびれ薬か何かの類いだろう。
フィルの苦痛に歪むその顔を見て、呆然とした。
満希の心臓の音が大きく聞こえ、指先が冷えていく。
私がすごい裏人だったなら、フィルを守れたのに。
涙を浮かべ、彼の腕の中にいることしかできない自分に辟易した。
「ヴァン、捕まえましたか?」
ゆっくり坂を下りてきたオブリビオン侯が、霧を掻き分けて現れた。
霧の中で膝をつくフィルと満希を見て、にんまりと笑う。
「お前が守護人ですか?ああ、失礼。候補でしたね」
オブリビオン侯はフィルを見下ろし、目を細めた。
その声色は、村人がフィルに向けるものとは全く違う。
フィルはその傲慢な態度に、心当たりがあった。
「……そうか、アルフレイムの貴族か」
フィルは荒く息を繰り返し、小さな声で呟いた。
「取引をしましょう、守護人候補サマ」
指輪をいくつもはめたオブリビオン侯の指が、空を切る。
「その女を渡していただければ、あなた様には危害を加えません」
その口ぶりは、フィルを侮るものだった。
傲慢なアルフレイムの貴族らしい態度に、フィルは苦く笑う。
「絶対に無理だね」
フィルは息絶え絶えに告げて、不敵に笑った。
満希の肩が、力強く引き寄せられる。
刹那、風が吹き乱れ満希の髪を揺らす。
「山神様が、許さないからね」
風が止むと、霧を払った先に現れたのは、アサギリだった。
膝をついた満希たちの前に、立ちはだかるその神聖な佇まい。
その姿を見るだけで、満希は目尻が熱くなる。
「何故山神が?!まだ守護人候補ではなかったのか?!」
オブリビオン侯は、アサギリを信じられないと目を瞠った。
その犬を山神だと疑わないほど、神々しかった。
「うちの守護人候補は優秀でしてね」
霧が晴れた暗闇から、低い声が響く。
ランタンを持った人物が、闇の中で揺れる。
夜の海のように長い髪は、片側へ三つ編みに結われて、先の方でほどけて絡まっている。
「国家魔法管理局です。皆さん、ちょっとお話を聞かせてもらえる?」
局長カイルの瞳が、ランタンの光に照らされて青く光った。




