名前のない祈り 29
寝ぼけた満希は、足元のいつもの熱を探す。
しかし、アサギリは窓の外、霧がかった暗い森をじっと見つめている。
「……アサギリ?」
低い声で唸り、牙を剥き出しにしている。
怪訝そうにアサギリをのぞき込んだ、その時。
——神の領域である境界線を、誰かが超えた。
弾かれたように、暗い森を見つめる。
満希は身体を強張らせた。
霧神様だと気づいた日から、自分が山の隅々まで見渡せる深い感覚があった。
山の中の異様な気配に、悪寒が走った。
廊下から物音が聞こえ、フィルが階段を下りていく。
ランタンを持って階段に向かって声をかけると、強張った表情をしたフィルがぼんやり照らされる。
「僕の結界が壊されてる。様子を見てくる」
不安げに彼を見つめると、応えるようにフィルは一瞬だけ目尻が下がる。
「ここで待ってて。すぐ帰るよ」
やさしい声でフィルは短く言い残すと、階段を下りていく。
アサギリが満希の脇をするりと抜けて、フィルと一緒に出て行った。
ひどく静かなログハウスの中、祈るように手を握った。
フィルとアサギリは、白く埋め尽くされた霧の中を迷いなく駆けていた。
長年駆け回った山道は、目を閉じていてもわかる。
精霊は怯えるように、姿を現さない。
異様な空気に、フィルはアサギリと足を速めた。
自分の魔力を乗せた鉱石が、どんどん壊され、結界が消えていく。
その跡を辿っていくと、アサギリが低く唸った。
——誰かがいる。
フィルは足を止め、気配を殺す。
無心に結界を壊している1人の男を、霧の中ぼんやりと見つけた。
背は高く細身で、何か大きな袋を持っている。
その袋から断末魔が聞こえ、フィルは頭を押さえた。
男は懐から灰を取り出し、宙に撒いた。
灰に引き寄せられた精霊たちが動きを封じられると、男が広げた袋の中へ吸い込まれるように囚われていく。
それを見たフィルの瞳の奥が、冷えていく。
精霊狩りだ。
アサギリは全身の毛を逆立て、その男をぎらりと睨みつける。
「霧神様は、右から」
フィルが短く伝えると、アサギリはすぐに地面を蹴った。
白い影が走ると、男が地面へ叩きつけられる。
男は、アサギリにいとも簡単に組み敷かれた。
抵抗しようにも、男はアサギリの魔法で動けない。
アサギリの牙が、男の喉元にぴたりと止まった。
フィルは男の懐から灰を取り上げ、杖を振りその灰を燃やし尽くした。
大きな袋を開ければ、中から精霊が一斉に飛び出した。
霧の中に紛れた精霊を見送り、フィルは男を振り返った。
「誰の差し金だ」
怒りを含んだフィルの声が、辺りに静かに響く。
杖をその男に向けて、見下ろした。
「言うかよ」
男はアサギリに組み敷かれたまま、嘲るように笑った。
刹那、男は口に含んだガラス玉を、高く澄んだ音を立ててかみ砕いた。
砕けたガラスの破片から、目が焼けてしまうような激しい閃光と、焦げた薬品の悪臭が鼻腔を突き刺す。
フィルが咄嗟に目を瞑ったわずかな間に、男の気配は消え去っていた。
強制転移の魔法具のようだ。
すぐにフィルは風を起こし、匂いを払う。
男を追おうとしたフィルに、霧神の声が頭の中で響いた。
「……3人の、匂い?」
男が、誘うように結界を壊していたことに気が付いた。
フィルの心臓が冷えていく。
「…………ミツキ!!」
満希は、居間に精霊が集まってくる様子を呆然と見ていた。
部屋の隅で不安そうに震え、動けなくなっている精霊に声をかけた。
「……大丈夫?」
満希の問いかけに、精霊は応えるように点滅した。
ガチャガチャガチャ。
玄関のノブが乱暴に回され、息を呑む。
一瞬フィルかと思ったが、彼はあんな風にノブを回すことがあっただろうか。
精霊は更に怯えきり、震えている。
満希は震える自分の手のひらをぎゅっと握った。
「みんな、こっちへ」
満希は、怯えた精霊たちを連れて、2階へ上がった。
精霊が近づかない自分の部屋を通り過ぎ、フィルの部屋へ向かった。
足元の本の山を避けて、薄暗い部屋のカーテンを開ける。
「ここから、逃げよう」
窓を開けると、精霊が窓の外へ逃げていく。
フィルの部屋の窓は、木が近い。そこから降りれば、外に出られるかもしれない。
彼女も後ろを追うように、窓辺に手をかけた時だった。
肩を力強く引かれ、満希は勢いよく床にあった本の山に倒れた。
薄暗い部屋の中、闇に溶け込むように身を潜めた男がそこに立っていた。
満希は痛む肩をおさえて、得体の知れない男を見上げた。
「これはこれは、健気なことで」
部屋の入口から、もう一人の声が聞こえた。
暗がりでもわかるほどに派手な赤い色の服を着たその男は、この場に不釣り合いな優雅な声だった。
「精霊を逃がすなんて、愚かなことを」
ランタンを持った男は、満希の顔を照らした。
男と満希は目が合うと、2人で息を呑んだ。
「お前は、パン屋の……!」
そこに立っていたのは、クロエが追い払った例の客だった。
見知った顔に、満希の顔は驚きを隠せない。
「なぜ、お前が守護人の家にいるんだ!」
男は苛立ちで満希の肩を押すと、彼女は再び本の山へなだれ込んだ。
強い力に、恐々と身を竦めた。
「ヴァン、話が違うじゃないか。守護人がいない間に、アレを手に入れるはずだったのに」
大げさな口調の裏に含んだ苛立ちは、今度はヴァンと呼ばれた男に向けられた。
ランタンにぼんやりと照らされたヴァンの瞳が、銀色に光る。
その男は口まで布で覆われ、表情は読み取れない。
「問題ない、オブリビオン侯」
ヴァンが、満希を見下ろした。
満希は、その冷えた瞳に囚われ恐怖で肩をこわばらせる。
「この女、神の気配がする」
ヴァンは満希の顎をとらえ、異様な気配の満希をながめた。
舐めるようなその視線に、満希の背筋は凍る。
「……神だと?」
呼ばれた男は満希を見下ろし、ゆっくりと目を細めた。
満希を不快そうに見ていた目が、品定めをするものへと一気に変わる。
「なんとも運がいい。新しい商品が増えましたね」
赤い服の男――オブリビオン侯の口ぶりに、満希が眉間に皺を寄せた。
フィルの部屋に残っていた精霊に気づくと、ヴァンは灰を撒いて袋の中へ閉じ込めた。
満希は、その光景に声を失う。
(……商品なんて、まさか……)
「精霊を、売るんですか……?!」
満希の震えた声を聞いたオブリビオン侯は、機嫌がよさそうに笑った。
「これはビジネスですよ」
これが違法なことか、満希には詳しくわからない。
しかし、フィルが大事にしている精霊を、こんな風に扱っていいはずがなかった。
「いいですね、お前には価値がありそうだ」
オブリビオン侯は目を細めた。
ヴァンは彼女を床に組み敷き、彼女の腕を縄で縛った。
満希は経験したことのない恐怖を耐えるように、ぎゅっと目を閉じた。
「まさか、こんな掘り出し物があるとはね」
満希は縛られた腕を引かれ、強引に立たされる。
部屋の中は、薬草の匂いで満ちている。
あたたかい彼の匂いが恋しく、満希は胸が締め付けられた。




