名前のない祈り 28
辺りを赤く染めた夕陽が、木々の隙間から差し込む。
フィルはいつものように満希を迎えに行った帰り道、どこか暗い目をした満希を不思議そうに見た。
いつもならクロエの話や村人の話をしているのに、今日は足元ばかり見ている。
「……どうしたの?」
フィルの声に満希は弾かれたように頭をあげ、立ち止まって辺りを見渡した。
いつの間にか山の中に入っていたことに気づき、目を瞬かせた。
「いえ、その」
満希は曖昧に笑って、言い淀む。
その姿にフィルは、眉間に皺を寄せる。
「……聞かないほうがいい?」
フィルの心配そうな声に、満希は詰まる。
「そういうわけじゃ……、ないんですけど」
満希の指先は、落ち着かない様子でスカートの裾をいじる。
木々は徐々に夜の姿に変わりはじめ、2人分の影がゆっくりと伸びていく。
静かな森の中で、満希のため息が響く。
「なんか、いつもフィルに弱音を吐いている気がして……」
満希は、困ったように呟いた。
フィルはその言葉を聞くなり、思わず笑う。
「前も言ったけど、頼られると嬉しいもんだよ」
未だに慣れないフィルの甘やかしに、満希は観念したように目を閉じた。
深呼吸を繰り返して、紡ぐ言葉を一生懸命考えている。
「………………実は」
満希の小さな声が、ぽつりと零れる。
「今日……お客さんを怒らせてしまって……」
「へえ」
フィルは興味ありげに、彼女の話に耳を傾けた。
満希は詰まった言葉をごまかすように再び足を動かすと、2人は夕闇に紛れていった。
数時間前——。
昼下がりのパン屋は、物々しい空気に包まれていた。
「まったく。シケた村のパン屋は、商品までシケていますね」
男はそう言うなり、トレーに載ったパンを床へ投げつけた。
満希は突然のことに、声も出なかった。
「こんな店に来てしまった事を、呪いたいくらいだ」
その男の大げさなしゃべり方と、傲慢な態度。
不快感に、満希の目の奥が冷えていく。
満希の顔をみた男は、さらに顔を歪めた。
「なんだお前、その顔は。気に食わない」
男がトレーを床へ落とし踏みしめると、パンが潰された。
店主が毎日丹精こめて作っているパンは、無残な姿になっていた。
満希はそのパンに、同情の瞳を向けた。
あんなに、おいしいパンなのに。
背中が震え、喉元までなにかこみあげた。
彼女は生まれて初めて、頭に血が上っていた。
「お客様。カスタマーハラスメントは、時代錯誤です」
「な、なに?カス……?」
満希は口にしてから唇を噛んだが、遅かった。
男は、言葉の意味はわからないが、態度が気に入らないと逆上していく。
店内に怒声が響き渡ると、他の客たちは逃げるように店を後にした。
満希は、耐えるようにその罵声をじっと聞いていた。
「お客様、小さな当店へようこそおいでくださいました」
明るい華やかな声が、店内に響く。
奥で休憩していたクロエが、貼り付けた笑顔をその客に向けた。
クロエの端正な顔立ちに、男は顔色を変えた。
「うちのパンが、申し訳ありません。片付けますので、外に出ていただけます?」
「……ふん」
「ああ!うちの商品のせいで嫌な思いをさせたのですから、守護人サマのお耳に入れなくては!」
その男は、みるみるうちに顔色を変えた。
出て行こうとした男は、最後に八つ当たりのように満希を睨み、背中を向けた。
クロエはその後ろ姿に向かって、んべっと舌を出した。
「へー……そんなことがあったんだ」
満希の話を聞いたフィルの目は、笑っていなかった。
今すぐ村に引き返し、その男の首根っこを掴みに行こうか本気で迷った。
「ちなみに、カスタなんちゃらって何?」
「お店の人に対しての迷惑行為のことです」
未だ浮かない表情をした満希に、フィルはため息を吐く。
そんな男のために、真剣に考える事なんて何もないのに。
「それで?」
フィルのやさしい声を聞いて満希は瞬きを繰り返し、自分の胸のわだかまりに目を向ける。
「……うまく接客できなかったな、と」
「そうかな?」
「はい。クロエは本当にすごくて……」
クロエは厄介な客に対しても、見事な手腕だった。
どんな客相手にも完璧で、同じ従業員の満希に対してもフォローが上手い。
あの男が、クロエを見るなり目の色を変えたこともはっきり覚えている。
「可愛いし、かっこよくて……すごいな……と」
満希はクロエに憧れていることに気が付いた。
さらに、その感情を誰かに言ってしまったことに、自分が一番驚いている。
そんな満希の不安をよそに、フィルは立ち止まり何か考え込んでしまった。
足を止めたフィルに気がつき、満希は振り返る。
「………………クロエ、可愛いか?」
フィルは腕を組んだまま、本気の声で呟いた。
満希は思わず「え、ええー……?」彼の言葉に戸惑いを隠せない。
フィルはそのまま黙りこくり、何かをじっと考えている。
「クロエは可愛いです……」
満希の小さな反論に、フィルはますます眉間に皺を寄せていく。
瞼を伏せ真剣に考えている彼を、ぼんやりと見た。
「…………ミツキの方が、可愛くない?」
眉間に皺を寄せたまま大真面目に答えるフィルに、目を見開く。
「…………へ?」
満希は素っ頓狂な声が出た。
「君は、知らないんだ!」
そんな彼女に気づきもせず、フィルは満希に食ってかかった。
「クロエの小さい頃は、僕たちの服の中に、虫や蛙を入れたり!僕の恥ずかしい話を村中に言ったり!」
かつての鬱憤を吐き出すフィルは、勢いを増していく。
満希は呆けた顔で、フィルの熱弁する姿を見ていた。
彼女のお転婆話を右から左へと聞き流し、少しだけ顔を逸らす。
「(……フィルが……私を……そんな風に)」
意識すると、顔が熱くなっていくのを止める事ができない。
居たたまれなさに満希は、背を向けて歩き出す。
置いて行かれそうになったフィルは、慌てて彼女の背中を追った。
「クロエはパン屋で働いて長い。始めたばかりのミツキより、上手く対応できなかったら困りもんだよ」
「私だって……お守り授けたり、接客は経験あります」
むくれたように言い返した満希に、フィルは可笑しそうに笑う。
こんな彼女を、出会った頃に想像はできなかっただろう。
「でもクロエは、この道もう20年以上だ」
満希は驚いて足を止めた。
目を白黒させる豊かな表情をする満希に、フィルは我慢できずに吹き出した。
「クロエは僕より年上。そろそろ30歳になるよ」
満希は声を失い、あのつやつやな肌を思い出す。
気さくな態度に人懐っこい愛嬌のある性格は、同世代かと思っていた。
「小さい頃から、家のパン屋を手伝っている。すごいね」
さっきはあんなに文句を言っていたのに、尊敬した口ぶりに変わる。
なんだかんだで幼馴染を大事に思っているフィルに気づき、満希は心がやわらかくなる。
フィルの言葉に、大人しく頷いた。
「次も変なお客さんが来たら、クロエを頼ればいい。店主の娘だしね」
満希は、彼女の知らない一面を知っても尚、眩しく思えた。
「頼れなかったら、技を盗むしかないね」
満希の遠慮がちな性格を知っているフィルは、的確なアドバイスをする。
少し見透かされたような気がして、満希は素直に頷くことができなかった。
気づけば満希の沈んだ気持ちは、消えていた。
フィルにアドバイスをもらって、年齢の差を思い知らされる。
頼れるお兄さんみたいだ。
「……フィル、……ありがとうございます」
恥ずかしそうにお礼を言った満希に、フィルは目尻を下げた。
「それにしても……『シケた村』ねぇ」
フィルは、不可解な男に思考を巡らせた。
あの村人がわざわざ、そんなことをいうものだろうか。
首都から遠く離れたあの村へ、観光客は少ない。
さらに気になるのが、『守護人』の名を聞くなり店を出て行ったことだ。
フィルは胸騒ぎがした。
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明日(土曜)正午ごろ、新作短編を公開予定です。
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