ぬくもりの行方 27
満希は鼻を啜りながら、フィルの腕の中に収まっていた。
だんだんと頭が冷静になり、今の状況が恥ずかしくてたまらなくなる。
「フィル……ありがとうございます。落ち着きました」
満希が静かに身体を離すと、ぎこちない沈黙が落ちた。
フィルは自分の思い切った行動に、今更顔を赤らめた。
「フィル、それで……アサギリの……霧神様の話です」
満希は気を取り直すように、咳ばらいをした。
「アサギリは……私に舞ってほしいのかもしれません」
フィルは訝し気に眉を寄せた。
アサギリが展開した魔法陣の中は神楽台のように澄んだ空気で満ち、白木の枝からはかつて握った神楽鈴の厳かな音が響いた。
直接本人に言われたわけではない。
しかし、期待を込めた眼差しは、見覚えがあった。
「でも、私は……もう舞えません」
妹が舞巫女になった日から、満希は踊れなかった。いや、踊りたくなかった。
神様から見放された自分に、気づきたくなかったからだ。
今は霧神様が満希を見ている事実も、実感が湧かない。
「……霧神様は、怒っちゃいましたかね」
満希は、背を向けて森へ帰っていったアサギリの姿を思い出す。
気落ちする彼女に、フィルは眉を八の字にした。
嫌な記憶で傷ついたというのに、どこまでもやさしい。
「怒っていればいいさ」
フィルは沈んだ顔の満希を元気づけるように、明るい声で言った。
その声に、満希は目を見開いた。
「君はもう神様に振り回される必要はない。やりたくないことは、やらなくていい」
フィルのまっすぐな意見に、思わず困ったように笑ってしまう。
「……ちょっと、勝手じゃないですか?」
「神様が勝手なんだ。気にしなくていいよ」
フィルはいつもアサギリに無遠慮な態度を取る。
絶妙なバランスの2人に、満希は思わず苦笑いした。
満希は壁の時計を見て、慌てて立ち上がった。
「あ、そろそろ出ないと……遅刻しちゃいます」
「え?!」
仕事に向かおうとした彼女の顔を、フィルは思わずじっと見る。
瞼や鼻は赤くなり、瞳はきらきらと潤い、泣いたことが一目瞭然だ。
こんな顔で村に行けば、お互い何を言われるかわかったもんじゃない。
「今日は休み!僕が連絡しとく」
フィルは指を鳴らして、魔法で筆と羊皮紙を取り出した。
「ええ、でも……」
満希は落ち着かない様子で、筆でなぞられていく文字を見つめる。
「ミツキは、ゆっくりすること」
フィルが指笛を鳴らすと、すぐに部屋の窓に小さな小鳥たちが集まっていた。
慣れた様子で足元に手紙をくくりつけると、「パン屋のクロエによろしくね」小さく小鳥に囁いた。
あっという間に鳥は飛び立ってしまい、満希は呆然とその背中を見送る。
「せっかくの休みだ。好きなことをしよう」
フィルは悪戯な顔で、満希を振り返った。
まだ状況を受け入れずにいる彼女は、混乱した頭をなんとか動かす。
フィルがくれた休日を、真剣に考え始める。
「どうしよっか?」
どこまでも優しい彼の声に、満希は恥ずかしくなる。
「……掃除をして、洗濯をして……あと、お昼の準備も……」
「(それはいつもの、家事では……)」
満希はログハウスの中をぐるりと見渡し、色鮮やかな花を思い出す。
「……あと、また……あのほとりに行きたいです」
花の甘い香りがするほとりを、脳裏で描く。
フィルは、満希の言葉に嬉しくなる。
迷い込んだばかりの頃の、やりたいことが見つからないと諦めた満希はもういない。
「オーケー。じゃあ僕は見回り行ってくるから、準備して待っててね」
「えっ、フィルの仕事は」
「大丈夫。見回りだけ済ませてくる」
フィルはすぐに準備をして、家を出た。
一人取り残された満希は、そのままソファに腰を下ろす。
泣きはらした瞼は、重い。
それなのに、胸の中だけが不思議とあたたかい。
理由はきっと、ひとつではない。
満希は床掃除を終えて、綺麗になった部屋を見渡して達成感に浸る。
ログハウスの匂いが、いっそう濃くなった気がした。
彼女にとって掃除することは巫女の仕事の一環で、義務だと思っていた。
しかし、掃除が終わった澄んだ空気を吸い込むこの瞬間が、一番気に入っていた。
「(……わりと、掃除って好きだったのかも)」
満希にとって、新しい自分の発見だった。
ふと、ソファの傍に置いた2人分のカップを見つけて、手にする。
苦い薬草の匂いを思い出し、指先に思わず力が入る。
普段フィルはユランと並ぶと小さく見えるのに、満希を抱きしめる身体は大きい。
広い肩に収まり、彼のあたたかい腕の中。
鮮明に思い出すと途端に恥ずかしくなり、満希はそのカップをすぐに洗った。
洗面台を掃除していると、鏡に映った泣きはらした自分と目が合い、思わず苦笑いをする。
ただ、あの頃みたいにみじめな気持ちにならない。
長い髪をじっと見つめてから、三つ編みに結い上げた。
鏡に映る自分は、あの日より嫌いじゃない。
あの日好きになれなかった自分が、すこしだけ許せるようになったような気がした。
——君は悪くない。
かすれた低いフィルの声を思い出して、満希は手を止める。
その言葉は、まるで魔法みたいに満希の心がじんわりとほぐれていく。
そっと胸に手をあてて、おまもりが増えて嬉しくなる。
その時の満希は、フィルの言葉だから信じられたのだと、まだ気づいていなかった。
昼食の準備を進めているうちに、突然いいことを思いついた。
自分の背丈よりも高い食器棚を隅から隅まで見まわし、目的の物を探してみる。
前の守護人は、家族で住んでいたと聞いたので、もしかしたら見つかると思ったからだ。
「なに探してるの?」
背を伸ばしてあちこち探していると、後ろから声がかかり満希の肩が跳ねた。
驚いた瞳に、目尻を下げたフィルが映った。
間抜けな自分を見られて、恥ずかしくなる。
「弁当箱、あるかな……と思いまして」
「お弁当?」
「上の方は、ちょっと手が届かなくて」
「なるほどね」
フィルよりも背の高い食器棚を見上げて、満希は諦めたようにため息を吐いた。
彼はひとつの箱を指さし、「あれかな?」と無邪気に寄ってきた。
見回りから戻ってきたせいか、フィルは葉の匂いが濃くなっている。
先ほど抱きしめられたことを思い出し、満希は気づかれないようにそっと距離を取った。
「っよ」
フィルはジャンプをして、自分の背丈よりも高い場所にあった箱を取った。
バスケ選手を思わせるフィルの高いジャンプ力に、満希はぎょっとする。
狙い通りお弁当箱だったそれを、満希の手に置くと、彼女は目を輝かせた。
「フィル、すごい!」
「え?!そ、そうかな……」
彼女の興奮した勢いに、フィルは驚きながらも照れ臭くなる。
満希は上段のもう1つのお弁当箱を指さし、彼に取ってもらうと破顔した。
無邪気に彼女が笑うと、フィルの心はくすぐったくなった。
それから2人は、暗い神秘的な森を通って、湖のほとりまで来た。
花の匂いを深く吸い込み、ピクニックの日を思い出す。
霧の晴れた真っ青な空が、湖にそっくり映っている。
脳裏に思い描いたとおりの見事な花畑に、思わず口が緩む。
満希は花畑の真ん中で腰を折り、すみれ色の花に触れた。
「花、抜いてもいいですか?」
「こんなにあるから、きっとみんな許してくれるよ」
すみれ色の花をそっと折って、大事そうに羊皮紙に挟み、持ってきた本の間に挟んだ。
同じ色の瞳をした、ちいさな友人を思い浮かべ、満希は笑みを浮かべる。
フィルは、おさげの彼女から視線を逸らす。
泣いたせいで肩の力が抜けたのか、いつもより無邪気に笑い、そのたびに、おさげが小さく揺れた。
いつもより無防備であどけない彼女に、胸の奥が落ち着かない。
湖の傍にそびえたつ木陰の下、2人で作ったお弁当を広げた。
満希の真似をして握ったフィルのおにぎりや卵焼き、唐揚げがぎっしり詰まっている。
フィルは自分で作った不格好なおにぎりを、難しい表情をして満希のものと見比べていた。
満希は華奢な手でおにぎりを握るように三角形を作る。
フィルはその手をじっと見つめ、不思議そうな顔をしていた。
「冷めてもこんなにおいしいんだね」
嬉しそうに食べるフィルに、頷いた。
外で食べるお弁当がこんなにおいしいなんて、知らなかった。
昼ご飯も満腹になるまで食べると、フィルは持ってきた本を読み始めた。
満希もリリンから借りた絵本を広げて、切なくてやさしい龍の話を指で辿っていく。
満希は視界の端でページをめくったフィルに、視線をうつした。
木陰の隙間から差す光に、フィルの翠玉色の瞳がたまに光る。
その瞳がぶつかると、フィルの顔が赤くなっていく。
「ど、どうしたの?」
満希は今どんな顔をしていたかわからない。
ただこのおだやかな時間を、ぎゅっと閉じ込めたい気持ちだった。
「これが、私の好きなことかも……って思っただけです」
フィルは嬉しそうに「でしょ?」と、得意そうな顔をした。
2人は花の匂いに包まれながら、文字を一緒に辿っていた。
満希は前と同じように、いつの間にかうたた寝をしていた。
風が頬を撫で、森と花の匂いを運んでくる。
葉の匂いがひときわ濃い。
傍らのあたたかい温度に気づいて、目が覚めた。
毛むくじゃらが、いつの間にか満希の胸元で丸くなっていた。
時折、陽を浴びた毛が銀色にかがやく。
いつもの温度に、満希の胸がひどく落ち着いていく。
「……アサギリ」
戻ってきたことが嬉しくて、彼女の声は震えた。
返事をするように、満希の涙の痕をアサギリは舐めた。
満希はその愛おしい神様の首に腕をまわして、土のにおいに顔をうずめた。
フィルも目が覚めて、安堵したように息を吐く。
大人しく彼女の腕の中で収まる神様は、満希から離れるはずがない。
顔をうずめた彼女の首元には、印が以前よりも濃く刻まれていたのだから。




