ぬくもりの行方 26
瞼を開けると、満月色と目が合う。
夢の中で見た建物のように大きい狼が、今は小さくなって腕の中にいた。
「……霧神様だったんですね」
満希は夢と同じようにアサギリの頭に、額を押し当てた。
起き上がると、満希はいつもと違うことに気づいた。
山の隅々まで感じ取れてしまいそうな感覚。
自分の中に、アサギリの気配が静かに息づいている気がして、胸に手を当てて声を漏らす。
「……不思議」
瞼を伏せて、この山に迷い込んだ日のことを思い出す。
とてもやさしく、自分が見守られていたこと。
それから全く怖くない、やさしい気配を。
——調和しうる者。
厳格な低い声が頭に響き、満希はアサギリを振り返った。
霧神様は驚く満希を一瞥し、部屋を出て行った。
その神聖な佇まいに、思わず息を呑む。
着替えを済ませ、アサギリを探しに庭へ出た。そこは霧に満ちて遠くまで見通せない。
ただ、霧の奥から霧神様の存在を強く感じ、満希は静かに霧を見ていた。
霧を纏って静かに現れたアサギリは、白木の枝をくわえていた。
優雅な足取りで枝を彼女の足元へと落とし、満希をみつめる。
その満月色の瞳は、いつものお腹が空いたときの甘えた目ではない。
その不思議な枝に触れると、聞きなれた澄んだ鈴の音が、うるさく頭に響く。
しまい込んだ記憶を、無理やり引きずり出されるようだった。
満希は咄嗟にその枝を落とした。
どくどくと波打つ自分の心音が、耳の奥で大きく鳴っている。
アサギリが前足を差し出すと、地面に魔法陣が現れた。
深い森の色をした大きな魔法陣は、庭を囲み辺りをまぶしく照らす。
シャラン。
満希は弾かれたように空を見上げた。
神聖な澄んだ空気の中、鈴の音がつよく響く。
魔法陣の上に立った満希は、張り詰めた懐かしい空気に包まれてはっと息を呑んだ。
神の期待を宿した眼差しに、彼女は拒絶するように頭を振る。
「……できません」
光に照らされた彼女は、痛みを堪えるように瞼を伏せた。
アサギリはじっと彼女の言葉を待つ。
「私は、もう舞えません」
満希は姿勢を正し、神を前にして冷淡にきっぱりと言った。
犬はすこし不愉快そうに怪訝な目を満希に向ける。
家の扉が開く音に振り返ると、フィルと目が合う。
「……霧神様、彼女に何かしました?」
フィルは腕を組み、不機嫌そうにアサギリを見下ろした。
まだ、彼が起きてくるには早い時間だった。神の魔力に気が付き、慌てて起きてきたに違いない。
あちこち跳ねた寝ぐせが、何よりも証拠だった。
犬は納得がいかないとでもいうように鼻を鳴らして、森へと向かう。
足元の魔法陣はいつの間にか消えていた。
フィルは傷ついた顔をした満希の前に立ち、顔をのぞき込む。
「何があった?」
そのやさしい声を拒むように、満希は頭を振った。
「よく……わかりません」
彼女にこんな顔をさせる霧神様に、フィルは苛立ちを覚える。
満希のまっすぐな背中が、今は酷く脆く見えてしまう。
その伸びた背を、フィルはぽんと軽く叩いた。
「朝ごはんにしよう。ね?」
気遣うような明るいフィルの声に、満希は苦く笑った。
「僕、コメ食べてみたい」
「そうですね、早速食べましょうか」
満希は洗った米を鍋に入れて火にかけ、先日買った魚が焼けるのを待つ。
「ミツキは、魚の骨取るの上手だよね」
「慣れればコツを掴みますよ」
まるで先ほどのことは夢のような静かな朝に、いつもどおり2人は会話をする。
焼けた魚を皿に並べ、野菜の盛り合わせを作る間に米が炊き上がる。
フィルは興味津々に中を覗き込み、独特な炊き上がりの匂いをかぐと、怪訝そうに首を傾げた。
食卓に食事を並べて、満希はいただきますと手を合わせた。
「おいしい……」
フィルは魚と白米を口に含むと、しみじみと眉を寄せた。
満希はその様子を横目にすこし笑う。
「口に合ってよかったです」
「これを……毎日食べてたんでしょ?」
満希は一瞬、瞬きを忘れた。
いつ話したかも忘れた、何気ない会話を覚えてくれているフィルに、満希はくすぐったくなる。
無くなりそうな自分の記憶を、フィルがやさしく拾い上げてくれることが、嬉しかった。
「美味しい、ですよね?」
満希はすこしだけ得意げに笑う。
フィルは彼女の笑顔に、胸を撫でおろした。
満希は居間のソファで考えごとをしていると、後片付けを終えたフィルが、お茶を持って隣に座った。
「次は、あの赤い魚食べてみたいよね」
フィルからマグカップを受け取ると、花の匂いが漂う。
この家に招かれた日も、同じハーブティを飲んだ。
何気ない会話をするフィルは、無理に何かを聞いてくる気配はない。
その優しさに、満希は迷い込んだ日を思い出す。
満希は口を開いてから、また閉じる。
お腹がいっぱいになって、やさしい人が隣にいる。
だからうっかり口を開いたのだと、自分に言い訳をした。
「……私の、話をして……いいですか?」
彼女の小さな声に気づいたフィルは、カップをテーブルに置いて満希に向き直る。
「聞かせて」
まっすぐな翠玉色の瞳に、満希は背中を押されるように口を開いた。
「……本当に、大したことじゃないんです」
手に持った瑠璃色のマグカップを握った。
「私の家は……古くから神様に仕える家でした」
そっと紡がれる声は、ひどく静かだった。
満希はまた、口を閉ざして瞼を伏せる。
「……私は、巫女でした」
満希の重々しい言葉が、静まり返った部屋に落ちる。
祖母から叩き込まれた通り、姿勢だけは正しく崩さないまま、瑠璃色のマグカップを親指で撫でていた。
「私の家では、男は神職に、女は巫女になる。それが当たり前でした」
満希はすでに決まった未来に、なんの疑問を抱いたことはない。
迷い込んだ林の近くに、大きな神社がある。
赤い大きな鳥居の下には、立派な神社が誇らしげにそびえ立っている。
その土地には、昔から語り継がれる言い伝えがあった。
「神様を称える舞をする——舞巫女を、神様が選ぶといわれています」
久しく口にしていない巫女の名前に、胸がひりひりとした。
それに気づかないふりをする。
「舞巫女を出した家は、名誉でありとても大事なことでした」
家族からは舞巫女になることを、小さなうちから呪文のように繰り返された。
期待の眼差しを、不思議に思いもしなかった。
「私の祖母は、昔舞巫女で……教え込まれた私は、選ばれると思っていました」
満希は、あの日の神楽台を瞼の裏に思い浮かべた。
「……選ばれたのは、妹でした」
静かな神楽台の上で妹の結月が舞い終わると、神風が辺りを包んだ。
周りが神の名を叫んでいるのを横目に、満希は風で遊ばれた鈴の音をよく覚えている。
「そのあとは、舞わない巫女として仕事をしてきました」
淡々と満希は口にしていた。
だが、マグカップを握る指先が震えていることにフィルは気づく。
「それだけです。それだけが……」
部屋は静まり返った。
満希は次の言葉を紡ぐことができず、震えた唇をかみしめた。
「…………辛かった?」
代わりにフィルが言葉にすると、満希の表情が歪んだ。
今にも泣いてしまいそうな満希に、フィルの胸が痛くなる。
「……なるほどね。よくわかったよ」
フィルはあっけないほど穏やかな声で言った。
なぜ霧神様が満希を選んだのか。それだけが、ずっとフィルの胸に引っかかっていた。
満希がもともと神に仕える者だったのなら、話は変わってくる。
フィルの反応に、満希は思わず拍子抜けする。
「わ、わかってますか?私は未熟な巫女の……」
満希は家族や親戚に向けられた痛い視線を、身体中で思い出す。
その視線は、最終的に興味がなくなるように逸らされていった。
痛いほどに自分が未熟なのは、わかっている。
「それで君の全てが決まるわけじゃない」
満希は息を止めた。
その言葉は、今まで自分を縛っていた何かに、静かにひびを入れていく。
舞巫女になることが、自分の価値を決めるものさしになっていたのだと気づく。
だから、ひどく悔しくて妹が羨ましかった。
「この世界に巫女はいないけど……」
フィルは少しだけ考えてから、穏やかに笑った。
満希の瞳は、涙がいまにも落ちそうできらきらしている。
「少なくとも今は、君を見てくれる神様がいる」
満希は、口を覆って瞠目する。
思い返せば、霧神様は夢の中で何度も会いに来た。
この山に迷い込んだ日も、魔力酔いで苦しかったときも。
ずっと、一人じゃなかった。
神様に見て欲しい。
かつて焦がれた事実に、満希の心が震える。
「前はたまたま、その神様じゃなかっただけじゃない?」
満希は舞巫女になれなかった日、一度だけ父親に叩かれたことを思い出す。
舞巫女になることは、家の名誉で決まり事であったと叱られた。
フィルの言葉に救われている自分に、満希は首を振った。
「でもフィルは、知らないんです。私……私は全然ダメなんです」
満希は長年向けられた視線を思い出すように、何度も首を振る。
舞巫女になれなかった自分は、何にもなれない。
姉の方は駄目だと教え込まれたように、あの感情をなぞる。
そうでなければいけない、と何度も唱えた呪い。
「僕は……君のことダメだなんて、ちっとも思ってないよ」
優しい翠玉色と目が合った満希の瞳から、涙がぽたりと落ちる。
満希はハーブティに落ちてしまった涙を避けるように、カップをテーブルの端に置いた。
泣くことも、許されなかったかもしれない。
満希の張り詰めた背筋。震える指先を見て、フィルはもどかしくなる。
フィルはその涙を、ひとつずつ袖で拭った。
濡れた睫毛を見つめながら、胸の奥がじくりと痛む。
今まで耐えていた彼女の震える肩に手を伸ばし、フィルはためらうように指先を止めた。
だが、花畑で見た満希の笑顔を思い出せば、気づけば彼女を腕の中に、そっと閉じ込めていた。
満希はフィルの匂いにつつまれながら、涙がとめどなくあふれ出す。
「……君が悪いんじゃない」
やさしい温度に包まれながら、満希は彼の肩口に額を押し付けた。
あたたかい木と苦い薬草の匂いがする。
誰かにそんなことを言ってもらったのは、初めてだった。
いつの間にか、縋るようにフィルの服を握っていた。
(……あたたかい)
満希は、やさしい彼の大きな腕の中で、瞼を閉じた。
魔力酔いのあの夜から——。
ずっと、この温もりに帰りたかった。




