ぬくもりの行方 25
いつもの決まった時間に、起こしに来る精霊の声がきこえない。
フィルは、花畑の中で目覚めたような心地よさに、ゆっくりと目を覚ました。
真っ暗な自分の部屋でもなく、花の匂いがするあの湖のほとりでもない。
フィルは左手の違和感に気が付き、寝ぼけた顔でそちらを振り向いた。
満希が自分の肩に額を寄せて眠っている。
フィルは絶句した。
自分の左手は満希のちいさな手で包まれ、動けない。
フィルは途方にくれて天井を見つめた。
「……なんて朝だ」
フィルは気恥ずかしさを隠すように、独り言を呟いた。
昨日の彼女の様子を思い出せば、なんとなく状況は理解できた。
客室は、明るく照らされていた。
山の朝は霧がかかるため、早朝からこんなに眩しい日はない。
窓から差し込む光で、彼女の髪にきれいな天使の輪っかができている。
思わず髪に触れると、さらりと指の間をこぼれ落ちた。
くすぐったかったのか、満希が小さく眉を寄せて目を覚ます。
「……おはよ」
フィルの低くて掠れた声が聞こえて、満希は驚きで固まった。
恐る恐る見上げて彼と目が合うと、声を失う。
起きたばかりの頭で昨晩のことを思い出そうとする。
彼の匂いがして、満希の手に思わず力が入る。
すると、握っていたフィルの手がわずかに動き、今度は彼の手のひらが満希の手を包んだ。
「ご、ごめんなさい……!」
満希は昨晩をはっきりと思い出し、すぐに手を離した。
フィルをベッドの淵まで追いやったことにも気が付き、慌てて距離をとる。
「昨日怖くて……だから、その……」
昨晩は頑なに怖くないと主張したのに、あっさり認めてしまうほど満希は動揺していた。
波の音が、部屋の外で微かに聞こえる。
フィルは上半身だけ起こし、小さくなっている満希を見て笑いをこぼす。
「ミツキ、寝ぐせになっちゃったね」
フィルが自分の前髪を触りながら、やさしい目で彼女を見た。
満希は自分の前髪を両手でおさえると、大きく跳ねた前髪が指先に触れた。
フィルの肩先に、額を押し付けていたせいだ。
満希は、顔を真っ赤にして、顔を伏せた。
「か、か、顔洗ってきます」
満希は、つまずきながら洗面所へ向かった。
フィルは、慌ただしく去っていく背中を見つめ、小さく肩を揺らした。
身支度を終えた満希は、胸の奥がどうにも落ち着かないまま、いつもの澄ました顔に戻っていた。
「今日こそはクロエのおつかいに行こうか」
フィルが魔法で洗ってくれた昨日の服に袖を通し、2人は宿を後にした。
爽やかな朝の潮風が身体を包む。
頭を上げて、町のどこからでも見える海を見た。
嵐が去った海は、一層おだやかに見えた。
「フィルは、お魚詳しいですか?」
「うーん、どうだろう。僕は肉の方が好きだし……」
肉が好きなのは男の人らしかった。
彼は山育ちだし、猟師の幼馴染もいれば当然だろう。
満希は少しだけ笑みを濃くした。
「とりあえず、食べながら探してみる?」
フィルは、桟橋の上の市場を指さした。
早朝にも関わらず人でにぎわい潮の匂いや、魚の匂いに満ちている。
「海鮮スープはどうだい?」
「お2人さん、冷たいジュースはどう?」
満希は大きな魚介の入ったスープを覗き込んだり、露店に並ぶ果実を興味津々に見ていた。
彼女が露店に目移りして足を止めるたびに、フィルは歩調を合わせた。
首都レヴァンデルでも食べ歩いたが、港町の露店はまるで違った。
魚がずらりと並ぶ露店に立ち寄る人は、観光客や行商人など、客層はさまざまだ。
「嬢ちゃんたち、海鮮焼きはどうだ?」
魚や貝が色とりどりに盛られたそれは、焼き上がりの香ばしい匂いがたちこめる。
満希とフィルは、ごくりと唾をのみこみ、店主に1つずつ注文した。
黒い貝のような食べ物を頬張ると、満希は目を輝かせた。
新鮮な貝の弾力とうまみが口の中に広がり、ほたてみたいだった。
今度は真っ青な魚介類を慎重に見つめてから、恐る恐る頭を食べて、しっぽに小さくかじりつく。
フィルは、満希が小動物のように見えた。
色は真っ青だが、形も味もエビだった。
つぶして揚げることもできるし、卵と一緒に混ぜてパンに挟めば美味しいだろう。
「これにしましょう、フィル」
「いいね。じゃあ、いっぱい買っておこうか」
満希はクロエから貰ったお駄賃を財布から取り出し、おつかい分を買う。
それから、満希が自由に使えるようになったお金で、アサギリの分をしこたま買い込んだ。
露店を楽しんでいると、陽は高く昇りはじめていた。
「暑い……」
繁盛している市場の人の多さと、焼き物の熱気のせいで、辺りは暑くなっていた。
満希は、風を求めて手を仰いだ。
「ミツキ、顔が赤いよ。平気?」
フィルは自分のハンカチを彼女の額に寄せた。
そのハンカチは真っ黒で、満希があげたものではない。
「……汚れちゃいますよ」
遠慮した満希に気づかないふりをして、フィルが満希にそっとハンカチを握らせた。
ふと、満希が作ったハンカチが彼の胸ポケットに入っているのを見つけて、満希はまた嬉しくなる。
「ほら、冷たいもの飲んで」
フィルからジュースを差し出され、満希はそれを受け取る。
口の中は、パイナップルのような酸味とバナナのような甘い果実の味が広がる。
「あっ」
フィルが、手の中にあるもう1つのジュースを見て、大きな声を出した。
「……ごめん、僕が口をつけた方を渡しちゃった……」
フィルは、やってしまったと赤い耳で項垂れていた。
満希は飲んでいたストローから口を離して、その先をじっと見つめる。
「……そういうことも、あります……よね」
満希はそう答えて、何も考えないようにもう一度ジュースに口をつけた。
さっきより落ち着かず、港町ルミエラはやけに暑かった。
満希たちは、買い込んだ海鮮を抱えて馬車に乗り込んでいた。
帰りの馬車は、停留所から乗ってくる客は少なく、行きと違っておだやかだった。
「……魚、いっぱい買えてよかったです」
おつかいとは別に、2人はアサギリのお土産と一緒に自分たちが食べる分を買っていた。
それは、おつかいよりも多くなってしまった。
「しばらく魚を食べることになりそうだ」
「いつも朝ごはんは魚を食べてましたので、嬉しいです」
満希は馬車に揺られながら、港町ルミエラのことを思い出していた。
嵐に巻き込まれたが、美味しい魚介をたくさん食べられて楽しかった。
それにフィルは、ずっと隣にいてくれた。
幸せそうな瞳をした満希に、フィルは笑みがこぼれた。
「ミツキは魚、好きでしょ?」
「……なんでわかったんですか?」
満希は、不思議そうにフィルを見た。
フィルは、港町でずっと目を輝かせている満希を思い浮かべる。
「なんでだろうね?」
フィルの得意げな顔に、満希は目を瞬かせるのだった。
それから二人は、馬車から見える通り過ぎていく景色を、それぞれの瞳に映していた。
きらめく海が遠ざかり、大きな湖や広大な草原をいくつも超えて、馬車はようやく首都レヴァンデルに辿り着いた。
馬車から降りると、二人は長旅の疲れをほぐすように、身体を大きく伸ばした。
「……そういえば」
フィルが、ふと思い出したように短く声を発した。
「局長が前に、魚と一緒に食べる『白い穀物』の話をしていたな」
「えっ」
満希は、驚きで目を輝かせた。
白い穀物といえば、毎食食べていた米しか思いつかない。
パンも美味しいが、やはり祖国の味は懐かしく感じてしまうものだった。
満希の期待の目を見逃さずに、フィルはにっこり笑う。
「レヴァンデルで探してみる?」
満希は大きく頷いたが、手に持ったおつかいの品が入った袋を心配そうに見た。
すると、スカートの裾に隠れていた霧神様の精霊がふわりと舞う。
小さく鳴いて、袋を包むように白い霧が集まった。
満希は瞠目し、その荷物に触れると、ひんやりとしていた。
フィルも初めて見た魔法を興味深そうにのぞき込む。
「霧で冷たくなっているみたい」
これで痛まずに済みそうで、満希は安堵のため息を吐く。
綿毛を優しく撫でると、綿毛は満希の手に頭をこすりつけた。
珍しい食材や香辛料が並ぶよろず屋に足を踏み入れると、白い穀物と呼ばれる米が並んでいた。
満希が顔を明るくすると、店主は物珍しそうに彼女を下から上へと見る。
「あんた、裏人さんかい?」
満希は目を丸くした。
慎重に頷くと、店主は人の良さそうな笑顔を返した。
「そうかい、そうかい。米はずっと昔に裏人が世に広めたものだからね」
満希は先ほどフィルが言っていた言葉を思い出す。
裏人を支援している魔法管理局の長であれば、知っていても不思議ではない。
「そんなに米を嬉ぶのは、裏人さんだけだよ」
満希はわかりやすかっただろうかと、少し恥ずかしくなる。
満希は財布を取り出したが、フィルに先を越されてしまった。
「フィル、ここは私が……」
「ん?いいんだよ」
しれっと会計を済ませてしまったフィルに、満希は困ったような顔をした。
クロエのお駄賃とは別に、満希は自由に出せるお金はあるというのに。
満希の気持ちを察したフィルは、満希をのぞき込んだ。
「裏人の保護は、国からお金が出るんだよ」
「……そうなんですか?」
「うん。それに、満希に作ってもらえるなら、お金はいらないよ」
彼女が作った料理を、フィルが毎日美味しそうに食べてくれることを思い出し、満希は黙り込む。
……それが、本心だったらいいのに。
そんなことを思って、苦笑いした。
「……じゃあ、美味しく作りますね」
「うん、お願いします」
1ヶ月分の米を買い込み、フィルは軽々とそれを持ち上げてしまう。
鞄には村人のおつかいが詰まっていて、重たいだろうに。
「フィル、私持ちますよ」
「ミツキは魚持ってるからダメ」
持とうとした満希の手を、フィルは簡単に避ける。
満希がもう一度空を切ると、フィルが楽しそうに笑った。
おかしな鬼ごっこに、満希もつられて笑ってしまった。
大きな荷物を持って魔法陣の前までやってくると、昨日も声をかけてきた国家魔法局員が魔法陣前で見張りをしていた。
「お、フィルさんお疲れ様でーす」
「お疲れさま。そういえば、例の書類どうだった?」
「完璧っす!ほんと助かりました」
満希は淡く光る魔法陣の上に立って、2人の様子を静かに見守っていた。
フィルの横顔は、仕事をしているときの顔をしていた。
満希は邪魔しないように、一歩下がった。
話をしているフィルが、おもむろに満希の方に手を伸ばした。
差し出された手を見て、満希は目を瞬かせる。
少し迷ったあと、その手を宝物に触れるようにそっと重ねた。
「じゃ、また連絡するね」
「お疲れ様でーす」
2人の声を聞きながら、やがて海の中へ潜る感覚が満希を包んだ。
港町の海のように透明な水面から顔を出す。
すると、もうそこはログハウスの居間だった。
「ワフッ!」
足元に大きな犬がいることに気が付いて、満希は彼の手をそっと離して腰を折る。
大きな荷物を抱えた満希は、アサギリがどこにいるかよく見えない。
「アサギリ、遅くなってごめんね。たくさんお土産買って……」
アサギリは彼女の言葉を聞かずに、胸に飛び込んだ。
勢いあまって満希は後ろへ尻餅をつくと、持っていたお土産をぶちまけてしまう。
「こら!」
フィルが胸に飛びついた霧神様の首根っこを持って、べりっとはがす。
不服そうに犬はフィルを見上げ、フィルはその視線をジト目でいなす。
満希はその姿を見て、笑いがこらえきれなくなる。
喜びを噛みしめて、瞼をそっと閉じる。
ああ、あたたかいこのログハウスに、帰ってきた。
「……ただいま」
満希はアサギリの鼻筋を包むと、嬉しそうに目を細めた。
ログハウスの匂いにつつまれながら、満希はしあわせな時間をかみしめた。




