ぬくもりの行方 24
客室の真ん中には、大きなベッドがあった。
カビと花瓶の花の匂いが漂い、部屋は嵐のせいで薄暗かった。
フィルと満希はびしょ濡れのまま、その部屋を呆然と見ていた。
普段一緒に住んでいるから、問題ないかと思った。
だが、あのログハウスは広く、四六時中一緒にいるわけではなかった。
満希がくしゃみをすると、フィルは我に返る。
「ミツキ、先に風呂に入った方が……」
フィルは慌てて口を押えたが、言葉はすでに紡がれた後だった。
ベッドを目の前にして言ってよかったのか、フィルは激しく動揺した。
満希は気にした様子もなく澄ました顔で頷き、床を水浸しにしながら風呂場へ向かった。
風呂場までは、薄い扉ひとつ隔てるだけ。
簡単に届きそうな距離に、フィルは鼓動が跳ねる。
「……買ったもの、整理しよう……」
思考を振り払い、落ち着かない手を自分の鞄へと伸ばす。
黙々と村人の顔を思い浮かべれば、フィルの雑念は徐々になくなっていく。
ぽたり、とフィルのえりあしから水が落ちていく。
たまらずくしゃみをして、フィルは自分も濡れていたことを思い出し、水浸しのローブを脱いだ。
杖で魔法陣を編むと、どこからか風が流れ、水で重たくなった服をなびかせた。
数分後。
閉められたはずの風呂場の扉が開き、満希が顔を出した。
「フィル、先に入ってもらえますか……?」
フィルは不思議に思いながら、ずいぶん困った顔の満希を見た。
「いいけど、……どうかした?」
びしょ濡れの彼女は、少し言いづらそうに後ろを振り返った。
「ボタンがうまく外せなくて……」
髪の毛を肩へ流すと、レースで覆われた背中が顕わになり、飾りボタンが並んでいた。
見ないようにしていた背中が目の前に現れて、フィルはぎょっとする。
「もう少し、……時間がかかりそうで」
満希は背中に手を回し、悪戦苦闘していた。
飾りボタンは、なんとか1つだけ外されている。
少しゆるんだ首元から覗く白い肌に、濡れた髪がはりついていた。
フィルは堪らずに、真っ赤な顔で項垂れた。
「ど、どうやってそんなの着たの?」
「アサギリが魔法で……風を……」
フィルは瞠目し、もう一度恐る恐る背中のボタンを見る。
風を起こしてから、ボタンが壊れないように留めるには、細かい魔法技術が必要になる。
やはり、あの犬はちゃんと神様だったことをフィルは思い知る。
彼女を見捨てて先に風呂へ入るべきか、ボタンを外すべきか、フィルは頭を抱えた。
魔法で外すとしたら、技術的に時間がかかってしまう。
手を使えば、簡単にボタンを外せる、が。
「(僕が……、脱がすのか……?)」
腰までつづくボタンを、丁寧に外すことを考えるだけで、居たたまれなくなる。
フィルは自分のうるさい鼓動に目を閉じた。
あれこれ考えても、結局フィルは困っている彼女を放って置けるはずがない。
意を決したその時。
「あっ……ファスナー、横にありました」
満希は脇下の小さな金具を見つけ、申し訳なさそうに風呂場へ戻っていった。
取り残されたフィルは手で顔を覆い、項垂れた。
2人は風呂から上がると、備え付けの寝間着に袖を通した。
先に乾かしたローブを着れば、変に目立つこともない。
夕食をとるために、宿屋に併設されている食堂へ向かうと、中はにぎわっていた。
宿屋とつながっているため、外に一歩も出ないのは非常に便利だ。
「今夜は辛くないものを食べたいですね」
「そうだね、あれはちょっと辛かった……」
昼の反省を踏まえた彼らは、一番人気のメニューを頼む。
店内の奥では、酒を片手に楽しそうに会話をする旅人が多くいた。
物騒な武器を椅子にかける姿は、満希のいた世界では見かけない。
窓の外は真っ暗で、雨が先ほどよりも強く窓を叩いていた。
しばらくすると、2人の間にアクアパッツァのような海鮮の煮つけが運ばれてきた。
食欲を誘う、新鮮な魚介の匂いに2人は、ごくりと喉を鳴らした。
口に含んだ瞬間、新鮮な魚の味で口が満たされ、満希の瞳は一瞬できらきらと輝いた。
そんな彼女を目の前にして、フィルは目尻を下げる。
食事を堪能した2人は、宿屋の廊下を歩いていた。
フィルは、部屋に戻ろうとしていた踵を返す。
「……僕、やっぱり外で寝るよ」
「えっ?!」
満希は、フィルと部屋の扉を交互に見比べ、外でどうやって寝るのかと眉をしかめた。
フィルも口走ったはいいが、方法はこれから考えるところだった。
「だ、ダメです!」
満希はフィルの袖を、つよく握りしめる。
遠慮がちな彼女にしては珍しく、強い口調だった。
そうは言っても、フィルはあのベッドで寝るなんて、考えられなかった。
何かいい手はないかと、フィルが思考を巡らせる。
ふと、彼女の手が、微かに震えている事に気づいた。
客室の扉の前で立ち止まっていたせいで、廊下を歩く他の人の視線を感じる。
フィルは頭を掻き、彼女を部屋に促した。
部屋に入った彼女は、そのまま動くことができずに怯えるように身をすくめていた。
その顔は以前夜の霧の山を歩いた時と、よく似ていた。
「ミツキ、……もしかして怖いの?」
満希は言い当てられ、ローブの胸元を握りしめた。
「怖く、ないです」
彼女はなんとか首を振り、感情を頑なに認めない。
「ただ……」
満希は迷ったように、口を開いてまた閉じた。
フィルは彼女の腕をそっと取り、ベッドの淵に座らせた。
その前に膝を折って、満希をのぞき込む。
満希はそのやさしい翠玉色の瞳に見守られて、すこし勇気をだした。
「……うちの家系は、視える人が多いんです」
満希のはっきりとしない物言いに、フィルは目を瞬かせ、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
彼女の怯える様子から、ひとつの推測に辿り着く。
「もしかして、お化けのこと?」
「……私は、感じるタイプですけど……」
満希はお化けの言葉すら口にしたくないように怯えきり、自分の手を強く握りしめた。
フィルは辺りを見渡す。
たしかに、この宿屋は不思議な気配が入り混じってはいる。
しかし、人の気配が多いせいか、隅っこで隠れているような感じだった。
「……一人は、ちょっと……」
怖くないと断固として認めない彼女がいじらしく、フィルは白旗を上げた。
「……わかったよ、外では寝ない。一緒にいよう」
満希は安堵したため息をついて、一気に表情が明るくなった。
そんな顔をされれば、フィルはたまらずに胸が苦しくなってしまう。
「じゃあ、……前みたいに、隣にいても……いいですか」
彼女の一言に、フィルは固まる。
満希はそんな彼の反応にも気づかず、不安そうにベッドの端を握っていた。
怖くて、誰かに傍にいてほしいのだろう。
フィルは、何も答えられずにベッドを見ていた。
フィルが寝ころぶと、満希も隣へ並んだ。
ベッドは大きかったが、2人並ぶには手狭だ。
あの夜ぶりの誰かの気配は、思ったよりもすぐ傍にあった。
フィルは瞼を早々に閉じて、何も考えない事にした。
「……フィル」
満希の声が震えていることに気が付き、無視できずにフィルは目を開けた。
「さっきは……すみませんでした」
「え?」
フィルは、一体何のことかわからなかった。
静かな沈黙が落ちると、窓の外の激しい雨の音がきこえてくる。
暗がりの中、満希は彼の真っすぐな優しい瞳を思い浮かべて、恐る恐る口を開いた。
「私は……誰かに頼りたくない、……気がします」
静かに呟く満希の顔は見えない。
その震える声が、必死に取り繕おうとしているのだけはわかった。
「だからさっきみたいなとき、フィルを呼べないんだと思います」
フィルは、海でナンパされていた時のことを話しているのだと気づいた。
満希はフィルに『呼んでくれてよかったのに』と言われてから、ずっと考えていた。
答えにいきついた彼女は、諦めたような声色で呟いた。
「フィルに、迷惑かけるわけにはいきません……」
張り詰めたように背中を伸ばした彼女を、フィルは瞼の裏に描く。
「……無理して頼ることはないけど……」
彼女の遠慮がちな性格を考えれば、言っていることはわかる。
ただ、無意識に頼りたいと感じる満希を何度か見かけた。
夜の霧の森の時も、先ほどの外に行こうとしたフィルを引き止めた時だってそうだ。
その時の満希を思い出して、フィルはすこしだけ笑う。
「僕は……ミツキが頼ってくれたら、嬉しいけどな」
無意識につかんだ指先が、自分に向いたときの高揚感は、簡単に忘れられるものではない。
フィルの明るい声に、満希は驚きで息を呑む。
誰かに、弱いところを知られたくない。
彼女の気持ちは、痛いほど理解できた。
「じゃあ本当に困ったら、僕を呼んで」
満希は、きっと難しい顔をしているに違いない。
その姿を思い浮かべて、フィルは笑ってしまう。
「ね?」
フィルの縛らない優しい声が響く。
満希はため息をつき、「……善処します」と小さく呟いた。
お互いの気配に落ち着かなかったが、一日中歩き回っていたせいで、眠りに落ちようとしていた。
しかし、風のせいで何かが落ちた音が外からすると、満希はたちまち身体を強張らせる。
「……フィル?」
満希は小声で小さく呼んだが、彼の返事は無く、既に眠ってしまったようだ。
隣にフィルがいてくれるのに、満希の身体は恐怖で固まる。
満希はすがるように、綿毛を探してシーツの上をなぞった。
すると、フィルの大きな手のひらにぶつかり、息を止めた。
満希の指先が、じんわりと暖かくなっていく。
ゆっくりと彼の指をなぞると、気持ちが落ち着いてくるのがわかる。
その体温に触れ、満希はわかってしまった。
毎晩アサギリを抱きしめるたびに、少しの違和感を覚えたこと。
一緒に眠った日からずっと、この熱を探していたこと。
満希は、恐る恐るその手のひらを両手で包むと、ぽかぽかしていた。
眠った彼の手には力が入っておらず、いつものように握り返してはくれない。
迷子になったときも、危ないときも、握ってくれたのに。
満希は心の中で謝りながら、彼の肩口に鼻を寄せた。
潮風の匂いと、あの日と同じ雨の日の森の匂い。
満希は、その体温を確かめるように手を握ったまま、安心したように瞼を閉じた。




