第3話
先の見えない白い草原を踏みしめていた。
あたたかな風が、満希の黒い髪を乱暴に揺らし頬をやさしく撫ぜる。
夏のように天高い空は、手が届きそうにない。
草を踏みしめる音に振り返ると、白銀の獣が近づいていた。
切望するような満月色の瞳は、彼女を映している。
大きすぎる獣は、彼女の首筋に口を寄せた。
「――――はっ……」
汗が全身に纏わりつき気持ちが悪かった。
窓の外は白み始め、薄暗い部屋に精霊が蛍のように揺らめいている。
見慣れない部屋の幻想的な光景に、満希は昨日の出来事が夢ではなかったのだと思い知る。だが、祖母のいない世界は、どこであろうと変わらなかった。
目が覚めたというのに、身体は泥のように重たく起き上がれない。昨晩彼が施した魔法のおかげで布団の中は温かい。
ベッドに沈み込むように、満希は再び眠りの淵へと引き戻されていった。
「ミツキ、起きてる?」
控えめなノックに気が付き、満希は今度こそ飛び起きた。少し目を閉じたつもりが、日が高くなるまで寝ていたらしい。
「ひ、人様のお宅で……なんてこと……」
慌てて家主に挨拶しようとしたが、信じられない光景に声を失う。
「入るよ?」
再度ノックしたフィルは扉を開き、同様に絶句した。
普段家の中まで入らない精霊が、部屋中に溢れかえっているのだ。光の粒が視界を埋め尽くし、昼間だというのに目が潰れそうなほど眩しい。
「こ、これは......ミツキいる?!」
「は、はい!おはようございます」
お互いの姿が見えない中で、目を細めながら挨拶を交わす。精霊は、なかなか起きない彼女を取り囲んでいた。
「ダメじゃないか!」
フィルの大きな声が響き、満希の肩が跳ねた。
大きくしかりつける声は、無意識に彼女の記憶の痛みをひっかいた。
手のひらや背中を走る鋭い痛み。
型が崩れるたびに飛んできた厳しい声。
あの頃の、ただ前だけを見ていた痛いほど真っ直ぐな日々。
(……おばあちゃん)
奥歯を噛み締め、指先を揃えて身を固くした。
「ミツキはお客様なんだよ!勝手に入ったらダメだ!」
怒っているはずなのにどこまでも優しいフィルの声に、満希はゆっくりと目を開けた。
眩しすぎた光の粒は潮が引くように退いていき、扉の前で仁王立ちしているフィルの姿がうっすらと見えてきた。
「またみんなで家の中に入ったら、キリガミ様に言っちゃうからね!」
キリガミ、という名を聞くなり、精霊たちは蜘蛛の子を散らすように消え去った。
溢れかえっていた光が霧散し、静かになった部屋にはフィルと満希だけが取り残された。
「おはようミツキ。びっくりしたよね?」
「い、いえ」
「おはよう」と遅すぎる挨拶を律儀に返したフィルに、満希は言葉にできない恥ずかしさが込み上げる。『キリガミ』という響きが、少しだけ胸に引っかかった。
彼は窓際に置かれた濁った石を、新しい土のついた鉱石へ取り換えた。光を吸い込んだ途端、石は薄暗かった部屋に空の色を映すような青い小さな光の紋様を浮かび上がらせる。
彼が手際よく「結界」を張り直す一連の様子は、満希にとっては不思議な儀式を見ているようで、何をしているかまでは理解できなかった。
精霊たちをしかる彼の姿は、守護者というよりは口うるさい親に近かった。
当たり前のように精霊と言葉を交わす彼は、満希がいた世界の住人ではないと思い知る。
ふと、フィルの動きが止まった。
サイズが合わず肩から大きくずり落ちた寝間着は、満希の白い肩を露わにしていた。
フィルは、自分の耳が急激に熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らした。
「しょ、食事できてるから!扉の前に着替え置いとくね!」
慌ただしく下の階に戻った彼を不思議に思ったが、鏡にうつる自分の姿を見て満希は顔を赤くした。
「失礼しました……」
「ぼ、僕も勝手に入ってごめんね」
今すぐ穴に入りたい気持ちを抑えて、食事を並べるフィルに頭を深く下げた。
心配して起こしに来てくれたというのに。居たたまれなさを噛みしめ用意された食事の前に座り、手を合わせた。
「食事の準備まで……」
「気にしないで。って言っても僕は料理がそんなに得意じゃないから……」
満希はスープが入った器をやさしく包み込み、昨晩と同じスープをのぞき込む。鼻に抜ける薬草の香りは、やさしい味わいを引き立たせる山のスパイスだ。
「……私、これ好きです」
フィルは困りつつ照れくさそうに笑った。
「それと、ミツキはさっきまで精霊過密のせいで意識が遠のいてたんだ」
「……セイレイカミツ?」
なじみがない言葉を満希はつぶやく。
「精霊が集まりすぎると、魔力が歪んで毒になるんだ」
満希は先ほどのことを思い出す。ちっともわからない。
他人事のようにうなずいた満希を、フィルは苦く笑っていた。
「まあ、あんなことはもうないから大丈夫だよ」
フィルが精霊を子供のようにしかったからか、稀に起きる特別な事なのかは満希にはわからなかった。わからない事は多かったが空間が歪む感覚はしっかりと肌で覚えた。
「それでこれからの事なんだけど」
食べ終えたフィルは、食器を置いて翠玉色の瞳で満希をまっすぐに捉えた。
「もう少しここにいるのはどうかな?」
彼は昨晩のように、なんてことのないように言った。
彼女はパンで咽せそうになった。
「ご厄介になるわけには……」
満希はこれ以上迷惑をかけるのは気が引けた。しかし、だからといって迷惑をかけずに満希の行先を見つける方法が他に思いつきそうにない。
彼は少し悩むように翠玉色の瞳を伏せたが、何か思いついたように、今度はその目を少年のように輝かせた。
「レヴァンデルに行くまでっていうのは?」
「……レヴァンデル?」
「一番大きい街だよ。今度行く予定があってね。そこは人が多くて、情報も多い。他の裏人のことを知ってる人も多いと思うよ」
満希は、人差し指で他の指の関節をなぞり考え込んだ。この世界に迷い込んだ裏人の事に少し興味があった。
どうやって生き、どのようにこの世界に訪れたかを。
「……いい、ですか?」
「うん、その方がいいよ」
「それじゃあ……お世話になります」
満希は座ったまま、お辞儀をした。
当面の計画が決まり、満希は安堵した。
「お金は、後から必ずお支払いしますので」
彼女の言葉に、フィルは困ったように眉を下げた。
気休めを言っても彼女の「負い目」は消えないと悟ったのだろう。
彼は少し考え、悪戯っぽく笑った。
「そしたら、僕の仕事を手伝ってもらおうかな」
「はい!私にできることなら、何でも」
満希は元気よく返事したけれど、祖母に教わった「仕事」とは、あまりに違う時間を彼女は過ごすこととなったのだった。




