第2話
「そこ、滑りやすいから気をつけてね」
フィルは足場の悪い場所では必ず声をかけ、満希の歩調を確かめた。
彼女はフィルを優しいとは思ったが、完全に警戒を解いたわけではない。
それでも、彼についていく足取りに迷いはなかった。
霧は一層深く冷えはじめ、日が傾きはじめたことを告げている。
遠くで獣の声が響く深い山の中、一人で夜を越すことなど到底できそうになかった。
霧で視界は悪いが、あたりは驚くほど明るい。まばゆい蝶たちが自ら発光し、霧を透かしている。
やさしくて温かな光は蛍を思わせ、夜でも眠ることがない東京の刺すような光とは似つかなかった。
蝶はフィルと出会う前よりも、その数は明らかに増えていた。
「……すごいね」
フィルが足を止め、感動を隠しきれない眼差しを蝶に向ける。
その口ぶりからは、彼にとってもこれが日常の光景ではないことが伝わってきた。
「めずらしい蝶ですか?」
「精霊だよ」
聞きなじみのない言葉を反芻した。
この森に入ってからそばを舞っていた蝶が、おとぎ話の中の存在である精霊だと言われ、言葉を失う。
満希の世界では、神様はいたけれど精霊はいなかった。
「精霊は裏人が好きというのは本当なんだね」
「……ウラビト?」
またも初めて聞く言葉に、満希の唇が小さく動く。
フィルは蝶へと優しく手を伸ばした。
「君は……反対側――“裏側の世界”から来たんだと思う。そこから来た人を、僕たちは裏人と呼んでいる」
この山……この世界を迷う人は、彼女が初めてではないらしい。
現実感のない話を聞いた満希は、自由に飛び回る神々しい精霊たちをぼんやり目で追っていた。
不思議な感覚だった。
満希の居場所は、いつも光の刺さない隅の方だった。
自分がこんなにあたたかく光り輝く存在に好まれているなんて、今はまだ、彼女には到底信じられなかった。
視界が白く塗りつぶされ、一寸先すらおぼつかなくなった時、ようやくその家は現れた。
密集する木々の合間に、緑の屋根のログハウスがひっそりと佇んでいた。
「どうぞ」
フィルが扉を開けると、閉じ込められていた温かな空気が流れ出す。
木の匂いと薬草の香りが混ざり合い、落ち着いた香りが満ちていた。
フィルは満希に渡したコートを受け取り壁にかけた。
外から見るよりもずっと広く、壁には使い込まれた道具たちが、まるで昔からの住人のように静かに並んでいた。
「ご家族は?」
「僕だけだよ」
満希は促されてソファに腰を下ろすと、体は深く沈み込み息を吐いた。
フィルはキッチンへ向かい、背丈より高い深緑の食器棚から、色違いのマグカップを棚から取り出した。
ふと振り返ると、満希はソファに深く沈み込みながらも、背筋だけは不思議なほどまっすぐだった。
満希は部屋を見渡す。
1人で住むには広すぎて、管理も大変そう。天井は高く部屋がいくつもありそうだった。
「この家は、山の守護人が住む家なんだ。僕は、次の山の守護人」
フィルは最初に名を告げた時に、山を見守る仕事をしていると言っていた。
「まだ、正式には決まってないけどね」
瑠璃色のマグカップを差し出され、恐る恐る受け取った。
口にすると花の香りが僅かに鼻から抜けて、甘みが広がる。ハーブティのようだ。
柳色のマグカップに口をつけたフィルも、美味しそうに息を吐いた。
「山に迷い込んだ人を保護するのも、仕事のひとつなんだ」
彼が迅速に迷子の満希を保護した様子を、満希は思い出す。
助けた理由は仕事の一環と聞いて妙に納得した。
「裏人は貴重であり、僕たちが保護をする事になっている」
フィルは、彼女の感情を伺うように瞳を覗き込んだ。
フィルの話を聞いても満希には、どこか他人事のように感じられた。家の中に入り込んだ光る蝶をぼんやりと目で追う。
「……わたし、どうなりますか?」
満希は、手の中のあたたかいマグカップを見つめた。
「……元の世界には戻れないと思う」
フィルは目を伏せて言った。
彼女は気づいていた。フィルが、帰り道の話をしないことを。
「山が嫌であれば、都会の方で家を手配することもできるよ」
まるで今日のおやつを選ぶかのように軽い言い方だった。
なぜ都会に家を手配できるかは理解できないが、真剣に彼女を案じているのがわかる。
「どうしたい?」
翠玉色の瞳は、まっすぐだった。
彼の責任感は、行動や言葉から感じ取れた。
「……よく、わかりません」
満希はそれを居心地悪く、視線を逸らした。
心身の疲労が思考を鈍らせていた。重たい身体は動かしづらいが、手の中にあるマグカップだけやけに暖かい。
「そうだよね」
大したことないようにフィルは言った。
フィルは台所に向かい「ゆっくりしてて。お腹すいたよね?」手際よく鍋に水を溜める音がする。
「今日は、もう休むといいよ」
彼の提案は、自然な善意だった。
「夜の山は危ないし、霧もまだ濃い。君が落ち着いてから進路を決めた方がいい」
1人暮らしの男性の家に泊まるなんて非常識極まりない。
満希はわかっているはずなのに、重たい身体が温まって動くことができず瞼まで重たくなっていく。
次第にまな板を叩く音が遠くなっていった。
しばらくして、フィルは彼女の様子を伺うと、ソファで瞼を閉じて小さく呼吸をしていた。
居間に戻った彼は、満希が大事そうに握りしめていたマグカップをそっと受け取った。そして、ソファの背に掛けてあった膝掛けを、彼女の体にそっと掛け直した。
普段家の中に入ってこない精霊が彼女のそばを回っている。
「起こさないでね」フィルが小さく囁くと、蝶たちは光を和らげ彼女と一緒に眠るように羽を休めた。
フィルは、幻想的な光景から目が離せなかった。
山が騒々しくなり、フィルは精霊に押されるように導かれた先に彼女はいた。
精霊はフィルに居場所を教えるように眩しく光っていたが、彼等が喜んでいたようにも思えた。
満希は、最初は話に半信半疑だったが、すんなり話を理解してもらえて山の守護人のフィルとしてはありがたかった。
しかし、彼女はあまりにも受け入れすぎだった。
混乱はしていたが、悲観せず仕方のないことだと諦めている様子だった。
裏人とは、そういうものなんだろうか?
聞き分けの良過ぎる彼女を想い、せめて少しでもゆっくりできるように料理を再開するのだった。
満希は目を覚ました。
一瞬だけ目を瞑った感覚だったが、美味しそうな食事がテーブルに並べられ時間が過ぎたことを物語っていた。
「ちょうどよかった。食べれる?」
食事を運んでいたフィルと目が合い、寝てしまったことに気まずさを感じながら頷いた。
湯気が立ち上るスープをゆっくりと口に含むと、ハーブと野菜の優しい味がひろがる。
「おいしい……」
満希のこぼれた独り言に、フィルは照れくさそうに笑った。
お腹の中が温かく満たされ、体の緊張が解けていった。
食事を終えると、フィルは食器を片付けながら、窓の外を見た。
霧はまだ深く、森は闇に沈みはじめている。
「冷えてきたね」
彼は指先を軽く鳴らした。
ぱち、と小さな音が弾け暖炉の中に柔らかな火が灯る。
炎は薪の芯からゆっくりと広がり、橙色の光を灯した。
満希はフィルの指先と暖炉を何度も見て、首を傾げた。
まるで手品のように一瞬で火をつけたようだった。
その様子に小動物を連想し、フィルは少し笑った。
「もしかして魔法を見るのは初めて?」
「……魔法?」
満希が尋ねると、フィルは少しだけ肩をすくめる。
「うん。派手な魔法は苦手だけど、こういうのなら得意なんだ」
火は音を立てず、部屋の空気をやさしく温めていく。
冷えきっていた指先が、じんわりと解けていくのがわかった。
「……すごい!」
満希は暖炉に近づき、火をのぞき込んだ。
彼女が今日一番大きく反応してくれたことに驚き、フィルは照れたように目を逸らした。
「魔法学校では、地味だってよく言われたよ」
そう言いながらも、火の様子を確かめるフィルの横顔はどこか誇らしげだった。
少しの沈黙のあと、彼は思い出したように口を開く。
「寝る場所なんだけど……」
そこで、言葉が一瞬止まる。
「部屋は二つあるんだ。普段使ってない方を片付けるから、今日はそこを使って」
そう言いながらも、動きがどこかぎこちない。
「その……落ち着かないなら、鍵もかけられるし」
フィルは必要以上に距離を保ち、視線を合わせない。完全に、満希を意識しているのが伝わってきた。
満希は一瞬だけ言葉を探した。
知らない世界。知らない家。知らない男。——それでも。
暖炉の火と、食事の温かさと、今日の彼の態度を思い出す。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
そう答えると、フィルの肩から、はっきりと力が抜けた。
「よかった」
心底ほっとした声だった。
用意された布団に入り、満希は天井を見つめた。
外では、山が静かに息をしている。
実家の静けさを思い出し、目を閉じた。




