第1話
霧は、いつの間にか足元に纏い始めていた。
空は木々で隠れて光は薄く、自分の足音だけが辺りに響く。
違和感に気が付き常盤満希は、立ち止まり、漆黒の長い髪を揺らし振り返った。
通り過ぎた道は、霧に包まれていた。
先程まで踏みしめた落ち葉の感触はなくなり、代わりに湿った土と、森の空気が肺を冷やしていく。
霧は淡く光を含み、周りの景色の輪郭を奪うように揺れていた。
――おかしい。
胸の奥がひどく静かになった。
鼓動が速くなるのを感じ、彼女は深く息を吸って目を閉じた。
常盤満希の祖母は、先日亡くなった。
家族と関係者で行われた葬式は、たくさんの涙で見送られ彼女の死を悼んだ。傍にいた満希の妹は、きれいな涙を落とし祖母を何度も呼んでいた。
祖母を失っても何事もなかったかのように、不変に廻る世界に満希は絶望した。
祖父母が持っていた山を、祖母を想いながら歩いていた。
山というよりは、林の丘の方が当てはまる。
そこは簡単に歩き回れてしまうはずなのに、長く歩き続けていた。
祖父が捨てた古い車も、祖母が眠る小さな墓も、見当たらない。
小さな林で、迷子になってしまった。
まぶしさを覚え目を開いた。淡い光の蝶が彼女に纏い、揺らめいていた。
蝶から小さな光が軌跡を残し、驚く満希の顔を照らしている。
見たことのない幻想的な光景に言葉を失い、目を奪われる。
まるで誘われるように舞う蝶につられて、足が動いていた。なだめるように満希の肩に留まるものもいれば、歌うように小さく揺れる蝶もいた。
蝶を追いかけ、霧の中を進んだ。
いつの間にか不安は忘れていた。
羽音に頭上を仰ぐと、枝先に淡い光を放つ鳥が、こちらを見つめている。
枝先は、自身の背丈よりずっと高かった。見覚えのない高い木々が自分を見守っている感覚だった。
それはとてもやさしかった。
「……なんだか、怖くない」
葉がざわめく音も、冷えた空気もどんどん心地よくなっていた。
背の高すぎる木々、眩しい蝶や鳥も、やはり見覚えがなかったはずなのに彼女はひどく安堵した。
息があがり足も重たくなってきた頃。霧の向こうで、何かが揺らめき、枝の割れる音がした。
――何かがいる。
息をひそめると、目の前の霧がゆっくりと割れ、山の色をした青年が現れた。
まばゆい蝶が二人を包み込むように舞い上がった。
空気が、澄んでいた。
木々のざわめきも動物が歩く音も聞こえない。
厳かな森の雰囲気に、息を呑んだ。
青年は蝶と彼女を見比べ、それから困ったように眉を下げた。
「……迷った?」
この山で聞いた最初の人の声だった。
満希は彼に頷いた。
霧は完全には晴れず木々は朧気に見えているが、青年の立つ場所だけが輪郭を保っている。
青年は驚いてはいたが、狼狽えたりもせず落ち着いた様子で少し近づいてきた。
「僕はフィル・エルム。この森を見守る仕事をしているよ」
「……常盤満希です」
満希は、名前を名乗ることに一瞬躊躇ったが、迷子の身として素直に素性をさらした。
彼の栗色の髪が、湿り気を含んで艶を帯びている。
「祖父母の山を歩いていたら、いつの間にかこんな大きな山にいて……」
見覚えのない背の高すぎる木々を見上げた。
青年フィルは、蝶と目を合わせたようなしぐさをして、しっかりと頷いた。
「ここは、君の知っている森じゃないんだ」
案じるような曇らせた瞳で彼女を見た。
「そして、君のいた世界でもない」
一瞬何を言われたか理解できなかった。
山の違和感には気付いていたが、違う世界に来た覚えはない。
からかっているのかと彼の瞳をのぞき込むと「……信じられないよね」フィルは苦笑いしていた。
信じられないが、深い森のような瞳や彼の名は、近所で見たことも聞いたこともなかった。
遠くの方で獣の遠吠えが聞こえた。
身をすくめて見上げたが、視界が霧に遮られ、声の主はわからなかった。
深い山の奥で微かに聞こえるはっきりとした獣の声。聞き覚えのない声に体が竦んだ。
「安心して。危ないところじゃないし、僕がいる」
静まり返った見知らぬ森が本物の迷子だと彼女に伝えていた。
彼女はそっと目を閉じ、震えた肩を隠すように腕を抱いた。
「この奥に僕の家がある。どんどん寒くなるし、よければ来ない?」
フィルは自分の上着を脱ぎ、薄着だった満希の肩にかけようとしたが、動きを止めた。
初対面にもかかわらず距離を詰めすぎたことにフィルは気付いた。満希の肩が、ぴくりと跳ねていた。
だがすでに行先の決まった上着をひっこめることはできず、一瞬迷ってから彼女の肩に上着をかけた。
「あっ、変なことはしないよ?!詳しい話をしたいし、それに……」
フィルの上着の肩幅は大きく裾も長い。満希は、すっぽり布に覆われた赤子のようにくるまっていた。
そこで初めて、“女の子に服を貸した”事実を理解し、フィルの視線があちこちに泳ぎ始める。
「その、……嫌だったら言って。無理にじゃないから」
フィルの耳が、うっすら赤い。
彼女は、大きすぎる上着をしばらく見つめて、軽く握る。
「……あったかい」
満希がそう呟くと、フィルは安堵したように微笑んだ。
霧の森で出会った青年は、不思議なほど優しかった。
その優しさに、自分が少しずつ救われることも。
囚われることも。
まだ、知らない。




