表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/19

第1話


 霧は、いつの間にか足元に纏い始めていた。


 空は木々で隠れて光は薄く、自分の足音だけが辺りに響く。

 違和感に気が付き常盤満希は、立ち止まり、漆黒の長い髪を揺らし振り返った。

 

 通り過ぎた道は、霧に包まれていた。

 


 先程まで踏みしめた落ち葉の感触はなくなり、代わりに湿った土と、森の空気が肺を冷やしていく。

 霧は淡く光を含み、周りの景色の輪郭を奪うように揺れていた。

 

 ――おかしい。


 胸の奥がひどく静かになった。

 鼓動が速くなるのを感じ、彼女は深く息を吸って目を閉じた。


 

 

 

 常盤満希の祖母は、先日亡くなった。


 家族と関係者で行われた葬式は、たくさんの涙で見送られ彼女の死を悼んだ。傍にいた満希の妹は、きれいな涙を落とし祖母を何度も呼んでいた。


 祖母を失っても何事もなかったかのように、不変に廻る世界に満希は絶望した。

 祖父母が持っていた山を、祖母を想いながら歩いていた。

 山というよりは、林の丘の方が当てはまる。


 そこは簡単に歩き回れてしまうはずなのに、長く歩き続けていた。

 祖父が捨てた古い車も、祖母が眠る小さな墓も、見当たらない。

 

 小さな林で、迷子になってしまった。

 



 

 まぶしさを覚え目を開いた。淡い光の蝶が彼女に纏い、揺らめいていた。

 蝶から小さな光が軌跡を残し、驚く満希の顔を照らしている。

 見たことのない幻想的な光景に言葉を失い、目を奪われる。


 まるで誘われるように舞う蝶につられて、足が動いていた。なだめるように満希の肩に留まるものもいれば、歌うように小さく揺れる蝶もいた。

 蝶を追いかけ、霧の中を進んだ。


 いつの間にか不安は忘れていた。


 

 羽音に頭上を仰ぐと、枝先に淡い光を放つ鳥が、こちらを見つめている。

 枝先は、自身の背丈よりずっと高かった。見覚えのない高い木々が自分を見守っている感覚だった。

 

 それはとてもやさしかった。

 

「……なんだか、怖くない」


 葉がざわめく音も、冷えた空気もどんどん心地よくなっていた。

 背の高すぎる木々、眩しい蝶や鳥も、やはり見覚えがなかったはずなのに彼女はひどく安堵した。


 

 

 息があがり足も重たくなってきた頃。霧の向こうで、何かが揺らめき、枝の割れる音がした。


 ――何かがいる。


 

 息をひそめると、目の前の霧がゆっくりと割れ、山の色をした青年が現れた。

 まばゆい蝶が二人を包み込むように舞い上がった。


 

 空気が、澄んでいた。


 木々のざわめきも動物が歩く音も聞こえない。

 厳かな森の雰囲気に、息を呑んだ。


 青年は蝶と彼女を見比べ、それから困ったように眉を下げた。


「……迷った?」


 この山で聞いた最初の人の声だった。



 満希は彼に頷いた。

 霧は完全には晴れず木々は朧気に見えているが、青年の立つ場所だけが輪郭を保っている。

 青年は驚いてはいたが、狼狽えたりもせず落ち着いた様子で少し近づいてきた。


 

「僕はフィル・エルム。この森を見守る仕事をしているよ」

「……常盤満希です」


 満希は、名前を名乗ることに一瞬躊躇ったが、迷子の身として素直に素性をさらした。

 彼の栗色の髪が、湿り気を含んで艶を帯びている。


 

「祖父母の山を歩いていたら、いつの間にかこんな大きな山にいて……」


 見覚えのない背の高すぎる木々を見上げた。

 青年フィルは、蝶と目を合わせたようなしぐさをして、しっかりと頷いた。


「ここは、君の知っている森じゃないんだ」


 案じるような曇らせた瞳で彼女を見た。



「そして、君のいた世界でもない」


 一瞬何を言われたか理解できなかった。

 山の違和感には気付いていたが、違う世界に来た覚えはない。


 からかっているのかと彼の瞳をのぞき込むと「……信じられないよね」フィルは苦笑いしていた。

 信じられないが、深い森のような瞳や彼の名は、近所で見たことも聞いたこともなかった。



 

 遠くの方で獣の遠吠えが聞こえた。

 身をすくめて見上げたが、視界が霧に遮られ、声の主はわからなかった。

 深い山の奥で微かに聞こえるはっきりとした獣の声。聞き覚えのない声に体が竦んだ。


「安心して。危ないところじゃないし、僕がいる」


 静まり返った見知らぬ森が本物の迷子だと彼女に伝えていた。

 彼女はそっと目を閉じ、震えた肩を隠すように腕を抱いた。


「この奥に僕の家がある。どんどん寒くなるし、よければ来ない?」


 フィルは自分の上着を脱ぎ、薄着だった満希の肩にかけようとしたが、動きを止めた。


 初対面にもかかわらず距離を詰めすぎたことにフィルは気付いた。満希の肩が、ぴくりと跳ねていた。

 だがすでに行先の決まった上着をひっこめることはできず、一瞬迷ってから彼女の肩に上着をかけた。


「あっ、変なことはしないよ?!詳しい話をしたいし、それに……」


 フィルの上着の肩幅は大きく裾も長い。満希は、すっぽり布に覆われた赤子のようにくるまっていた。

 そこで初めて、“女の子に服を貸した”事実を理解し、フィルの視線があちこちに泳ぎ始める。


「その、……嫌だったら言って。無理にじゃないから」

 フィルの耳が、うっすら赤い。


 彼女は、大きすぎる上着をしばらく見つめて、軽く握る。



「……あったかい」


 満希がそう呟くと、フィルは安堵したように微笑んだ。


 霧の森で出会った青年は、不思議なほど優しかった。


 その優しさに、自分が少しずつ救われることも。

 囚われることも。


 まだ、知らない。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ