第21話
淡い光の精霊は、満希たちを誘うように、薄暗い深い森の奥へと導く。
精霊のあとを辿る満希の瞳は、光を映してきらめく。
しばらく歩きづらい道を進み、迷いなく進むフィルの背中を追いかけていると、辺りは明るくなった。
「……わ……」
開けた場所に出ると、山の起伏の間に、湖のほとりがあった。
見事な花畑が湖の周りを囲み、自然溢れる静かな場所だった。
鼻をくすぐるのは甘い花の香り。
しゃがみこんで色とりどりに並ぶ花を、覗きこむ。
「(リリンちゃんに、押し花送れるかも)」
彼女の瞳の色をしたすみれ色の花にそっと触れる。
青空の下、陽をたっぷりと吸い込んで輝く水面に、満希は息を吐いた。
こんなに綺麗で、あたたかい世界があるなんて。
惚けている満希の横を、アサギリが花畑の中へ軽快に走り去っていく。
本能のまま走り出す犬に、満希はくすりと笑う。
「綺麗でしょ?」
フィルは座り込んだ満希を覗き込んだ。
その顔は、たからものを見せてくれるリリンと同じように誇らしげだった。
満希は笑みを濃くして、頷いた。
「連れてきてくれてありがとうございます」
満希は風に遊ばれる髪を抑えて、フィルを見上げた。
フィルは、満希の笑顔を眩しそうに見つめた。
湖のそばに立つ大きな木の木陰に、フィルは腰を下ろした。
満希は荷物の中から買ったばかりのボールを取り出し、アサギリを振り返る。
「アサギリ、持ってきたよ」
犬は青いボールを見るなり目を輝かせ、満希の傍に寄り、大きな尻尾を振った。
満希が投げたボールを、アサギリが華麗にジャンプして捕まえる。
その拍子に花びらが辺りを舞って、甘い匂いが濃くなった。
見事な運動神経を彼女が褒めると、アサギリは誇らしげな顔をしていた。
フィルは本格的に犬になっていく神を、呆れたように見ていた。
キャッチボールをしているうちに、満希はじんわり汗をかきはじめ、ローブを脱いだ。
淡いあざやかな黄色のワンピースを翻す満希に、フィルは息を呑む。
まるで、春の花のように可憐だった。
木陰の下で休むフィルの傍に、満希は脱いだローブを置いた。
「ミツキ、黄色の服なんて持ってたんだね」
満希は隠していた自分の服を、はっとしたように見下ろす。
今更ローブを着ることもできず、彼女は後ろの裾を握りしめる。
「変ですよね……」
満希は、不安げに小さな声でぽつりとつぶやいた。
「え?!ち、違うよ」
表情を変えた満希に気が付いて、フィルは慌てて立ち上がった。
自分の背よりも小さい彼女の頭のてっぺんを見て、気の利いた言葉を考える。
しかし、頭の中でずっと思っていた言葉しか思いつかず、観念したように目を閉じる。
「……に、似合ってるよ」
恥ずかしそうにフィルが呟くと、満希は胸がくすぐったくなる。
「フィルも素敵なシャツです」
社交辞令のような言葉を残し、満希はほっとしたように、アサギリの元へと戻って行った。
出にくくなった言葉は、フィルがどんどん満希に惹かれている確かな事実。
そのことに気が付いて、フィルは徐々に顔が赤くなっていく。
花畑の真ん中に、白い犬と淡い黄色い花が咲いている。
フィルは、その淡い黄色の花を熱心にみつめていた。
しばらく遊んでいた満希たちは木陰の下に戻り、持ってきたパンを広げた。
満希の記憶を頼りに再現された新商品の菓子パンに、フィルは目を丸くする。
普段何気なく食べていたパンが、彼を驚かせている。その姿を満希は楽しげに見つめた。
もう腹に入りきらないほど食べつくしたフィルは、寝ころんだ。
「僕、休みの日はここで本読むのが好きなんだ」
「いいですね」
森を通ってきた風が、2人の間を吹き抜けた。
風がやさしく満希の髪を揺らし、眠りの入口へと誘っていく。
満希が襲い来る眠気を堪えていると、仰向けになったフィルは既に目を閉じていた。
うたた寝しても、だれも咎めない。
自由な彼に、満希は笑みをこぼし、彼のとなりで目を瞑った。
隣でアサギリが丸くなり、あたたかくなる。
水面をなぞる風の音が耳に届き、安らかな時間だった。
風の音に耳を傾けているうちに、満希は眠りに落ちていた。
うたた寝から目覚めたフィルの鼻を、甘い花の匂いがかすめる。
お気に入りの場所で目が覚めるときは、いつだって幸せな気持ちになる。
しかし、いつもと違う背中の暖かさに、息を呑む。
振り返ると、満希が背中をぴたりと寄せて眠っていた。
背中を向けた満希は安心しきった顔で、アサギリをきつく抱いている。
フィルは愛おしさに胸を突かれ、その背中のぬくもりを記憶に刻み込もうとする自分に気付いて頭を振る。
アサギリは暑苦しそうに彼女の腕から器用に抜け出し、満希の足元に背をあずけて寝転がった。
「(……それは、犬の寝方では……)」
フィルは、穏やかに眠る満希の、血色の良くなった顔を見つめた。
最近の彼女は仕事にすっかり慣れ、見違えるほど元気だった。
この世界に来たばかりの日は、精霊過密になるほど精霊に囲まれたこともあった。
あの時は、裏人に興味をもった精霊が、偶然に集まっていると思っていた。
だがそもそも精霊過密は、濃密な魔力に引き寄せられて起こる症例のひとつ。
「神様の魔力みたいな、力強い魔力に集まる……」
フィルは独り言のように呟いて、満希と神様の混ざり合う魔力をじっと見つめた。
——この世界に来たあの日から、神様の力が彼女に混ざり始めていたとしたら?
心臓が嫌な音を立てる。
フィルは息を呑んで、彼女の足元で眠る霧神様の背中を見つめた。
白銀の毛が、そよそよと風にあそばれている。
「霧神様が……ミツキをこの世界に呼んだ……?」
ぽつりと溢した声に反応するように、丸まっていたアサギリが、ゆっくりと振り返った。
その満月の瞳と、まっすぐに目が合う。
アサギリは何も語らず、ただ一度だけ、優雅に尻尾を揺らして再び背を向けた。
自由奔放で、底の知れない神様への苛立ちがふつふつと湧き上がる。
満希が必然的にこの世界に迷い込んでいたのだとしたら。
最初から、神様の掌の上で踊らされていたことになる。
「……フィル」
不意に名前を呼ばれ、フィルは弾かれたように満希を見た。
彼女はまだ夢の中にいるようで、幸せそうに瞼を閉じ、小さく微笑んでいる。
夢の中で自分の名前を呼んでくれる彼女が、愛おしくて、同時に胸が締め付けられるように痛む。
やっと、平穏な生活になりそうだったのに。
フィルはそっと手を伸ばし、彼女の黒髪を耳にかけてやる。
指先に触れるなめらかな白い肌が、壊れそうなほどに儚い。
胸の奥のざわつきは、静まるどころか大きくなっていく。
この山の因縁に、彼女を巻き込みたくない。
ただ、彼女に笑ってほしい。
満希を視線でなぞりながら、山の守護人は、ただ静かに祈るしかなかった。




