第20話
フィルは暗がりの中、もらったハンカチを見つめていた。
精霊は彼の手をぼんやり照らし、熱心に囁き合う。
「……うん、明日持っていくよ」
やさしい明かりの下、象牙色の刺繍を何度も指でなぞる。
精霊は彼の手に寄り添い、ちかちか光り合う。
「……うん、うれしいね」
フィルの声は、震えていた。
満希は朝から鏡の前に立ち、スカートを色んな角度から翻してみる。
「……やっぱり似合わないな」
ワンピースの裾を寂しそうに撫で、準備した三つ編みをほどいてしまう。
着替え直したかったが、約束の時間に遅れてしまう。
それに着替えたら、クロエが怒るかもしれない——。
満希はこの服を強引に貸してくれた昨日のことを、思い出していた。
「それって、フィルとデート?」
満希はクロエの部屋の隅で、息を止めた。
首を振り、クローゼットに潜り込むクロエの背中を見つめた。
明日の仕事休みの日にフィルと出かけることを話すと、仕事終わりにクロエの部屋へ連れてこられた。
「山の奥でピクニックしようって言われたんでしょ?」
「……プレゼントのお返しに、です」
「プレゼント?何あげたの?」
クローゼットから顔を出して、クロエは興味津々に満希の顔を見た。
彼女から花の匂いがして、満希は少しだけドキリとした。
「ハンカチに刺繍をして……」
「刺繍……?」
クロエの青い瞳が大きく見開き、無遠慮に彼女をまじまじと見た。
「……わ、私でもできそうだったので……霧花の刺繍を……」
「霧花の……刺繍??」
満希は彼女の気迫に気圧され、声が小さくなっていく。
手間暇のかかる刺繍は、家族や婚約者など近しい者に贈られることが多い。
さらに霧花はあの山の朝霧の中でしか咲かないため、古くから言い伝えがある。
『また次の朝に会いましょう』
旅立つ家族や最愛の恋人へ、願いを込めて贈られる特別な花だ。
裏人の満希は、きっと深い意味があるかなんて知らないだろう。
「(……おもしろいから、黙ってよ)」
フィルがどんな気持ちでそれを受け取ったのかと考えると、クロエはにやけそうになる。
「やっぱり、ピクニックならこれじゃない?」
クローゼットから取り出されたのは、赤みを帯びた黄色いワンピース。
首元まで覆うデザインは華やかで清潔感があり、まるで夕暮れの空のような温かみのある淡い黄色だった。
「すっごい似合うよ!これ、貸してあげるから明日着て!」
クロエはにっこり笑って、満希に服をあてがった。
満希は着たことのない鮮やかな色に、慌てふためく。
「で、でも黄色は……」
「似合う!」
「……フィルが変に思うかも、……しれませんし」
フィルの名前に、クロエはにやけそうになるのをなんとか堪えた。
「ミツキって、フィルと付き合ってんの?」
クロエの言葉に満希は激しく首を振り、まさかと困ったように笑う。
満希は仕事中にも、客から聞かれることが多かった。
この前もフィルが言ったように、いつか消える噂だ。
「フィルに失礼です。私じゃ……彼が可哀想です」
冷淡に呟くが、その伏せた睫毛は微かに震えていた。
「……難儀だこと」
クロエはすべてを見透かしたように笑うと、満希の背中をポンと押した。
「この服着るまで、返しちゃだめだよ」
クロエは満希の背中を押して、部屋から出た。
半ば強引に貸してもらった服をローブの下に隠し、満希は居間に降りた。
空の色をしたシャツ一枚で寛ぐフィルの姿を見つけ、いつものように挨拶を交わす。
いつもより軽装で、彼も休日らしい。
その胸ポケットには、あのハンカチが入っていることに気が付き、満希は嬉しくなる。
「ミツキ今日の髪、くるくるしてるね」
何度も編みなおした三つ編みのせいで、髪にしっかりと痕がつき、うねっていた。
満希は、内心冷や汗をたらし、その髪を両手でぎゅっと握りしめる。
「これは、ね、寝ぐせです」
「そうなの?僕もよく跳ねるよ」
「(……知ってます)」
満希は昨夜買ったパンを持つと、匂いにつられたアサギリが嗅ぎにやってくる。
フィルもローブを羽織り、揃って家を出た。
山の奥は雨上がりの匂いで満ち、静寂な空間だった。
家の周りの森よりも木々は濃く彩り、こけの生えた道が多い。
陽が昇っているにも関わらず、辺りは薄暗かった。
進むにつれて精霊の数が増え、満希たちを歓迎するように道を開けていく。
「昨日の雨でぬかるんでるな……」
フィルは歩きやすそうな道を選び、満希を振り返る。
「(借りた服、汚れないようにしないと……)」
いつもより慎重に、どこか危なっかしく歩く満希を気遣い、フィルは自然と歩調を緩めていた。
歩くたびに満希の纏うローブの裾から、鮮やかな色がちらつき、彼女の胸元でうねった髪が優雅に揺れる。
いつもと違う彼女に、フィルは慌てて思考を振り切るように頭を振った。
彼女への気持ちを認めたが、それを受け入れるかは別の話だった。
満希がいつかこの山からいなくなったら、この感情ごと蓋をしなければいけない。
お互いのためにも、深入りしてはいけない。
フィルは背の高い木を見上げ、にぎやかな精霊の声に耳を傾ける。
(僕はこの山で、独りで見守り続ける守護人なのだから……)
満希は澄ました顔で、ごつごつとした木の根の上を歩いていた。
しかし、足をついた場所が悪く、ぐらりとバランスを崩してしまう。
「……ほら、気をつけて」
考えるより先に、フィルの手が動いていた。
頭で意識すれば動かなくなるはずの手が、無意識に彼女の手を掴んでいる。
深入りしてはいけないと思ったはずなのに、身体が言うことをきかない。
真夜中に彼女の温度を知ったあの日から、すべてが変わってしまった。
自分は彼女の温度に深く執着していることを隠すように、視線を逸らした。




