第14話
あったかくて、雨上がりの森の匂いがする。
瞼を開けると、視界いっぱいに黒い布地があった。
不思議に思い頭を上げると、目に入ったのは喉ぼとけだった。
あたたかい温度と、わずかな重み。フィルの匂いに包まれて満希は声を失う。
抱きしめられていた。
フィルの身体は簡単に満希をすっぽり覆い、清涼感のある薬草が混ざった彼の匂いに眩暈がする。
もぞもぞと彼の隙間から抜け出すと、彼女の上にあった腕は、するりと床へ落ちた。
少年のような寝顔を見つめて、絶句する。
「(わたしやっぱり、相当寝相が……)」
満希は顔を赤くしたり、青くしたり忙しかった。
落ち着こうとふわふわした感触を探したが、その手は空を切る。
「……あれ、……?」
どこを探しても綿毛はなかった。
いくら探しても、綿毛は見つからなかった。
寂しさを引きずりながら、麻袋を持って庭に出た。
庭に出ると、いつもの位置に見慣れた白い犬の背中があった。
満希に気付くなり、大きな尻尾が揺れる。
「おはよう」
頭を優しく撫で上げると、尻尾の揺れが大きくなる。
満希はいつものように自身の洗濯物を桶に入れてから、悩む。
この前下着を干しているところをフィルに見られた気がする。何も言ってなかったけど、絶対に見られた。
しかし、他の干し場所のあてもない。
満希が悩んでいると、桶の中に置いた洗濯物が無くなっていた。
「……あれ?」
満希が辺りを見渡すと、麻袋に下着が入っていた。
桶と麻袋を交互に見比べる。
(わたし、桶に出したような……)
もう一度、麻袋から洗濯物を取り出すと洗い立ての手触りと微かないい匂い。
新品のような触り心地だった。
満希は不可解そうに、こめかみに手を当てた。
「……魔法みたいな……?」
「わふっ」
隣に座っていた犬と目が合う。
今度は洗濯物と犬を見比べた。犬はどことなく得意げにしている。
もしかして。半信半疑で不思議な気配の犬を凝視した。
そうだったらすごい。犬の頭を撫でた。
裏庭から戻る道の端に、ちいさな白い花がある。
朝にしか咲かないようで、今日も開花の瞬間を見れたことに笑みを浮かべる。
足元をくすぐるように通り過ぎた犬が、満希を見上げていた。
やさしい朝だった。
「だめだよ、ここまで」
満希の困った声で目が覚めた。
フィルは、冷えた身体を抱き込むように腕を抱く。
布団をはいでしまったのか、やけに寒い。
ぼんやりする頭で、満希のいない布団を眺めていた。
「フィルに怒られちゃうよ」
名前を呼ばれ、少しずつ頭がはっきりしてくる。
居間の天井を見て、それから声のする方へ振り返る。
「わんちゃんは、家には入れません」
玄関の前で座りこんだ白い犬に、満希は優しく諭している。
白い犬は彼女の脇をすり抜けようとし、また振り出しに戻る。
「え、……どういう状況?」
フィルは白い犬をこれでもかと凝視した。
満希はフィルを起こしてしまったことを謝りながら、白い犬が家の中に入らないように扉の前で手を伸ばす。
「……入りたいみたいで」
フィルは信じられないという目で犬を見た。
その犬はしれっとフィルの視線を逸らしている。
隙を見て、満希の横をすり抜け家の中に入ってしまう。
居間のソファにどや顔で座りこみ、てこでも動かない意思を感じる。
フィルは、その犬を呆れたように見た。
「こら!」
満希は、昔飼っていた犬と同じように白い犬を叱った。
聞いたことのない彼女の大きい声に、フィルと犬はこれでもかと目を見開いた。
「人様の家に、土足で勝手に上がりこんじゃいけません」
他人の子供を諭しているようだった。
満希は布を濡らして、犬の足の土を綺麗にふき取る。
その犬は大人しく前足を拭かれながら、耳を下げて満希を恐る恐る上目遣いでみていた。
「(怒られた犬と同じ顔している……)」
フィルはそれをじっと見ていた。
「さ、外に……」
白い犬は大きな身体を、満希の懐へ滑りこませた。
彼女の顎が毛に包まれ、あたたかい獣の温度に満希は何も言えなくなる。
慣れた様子で顎を差し出され、撫でてやると大きな尻尾を揺らした。
かわいい。
いつもと同じ感想にたどり着き、満希はあっさり犬の配下に下った。
「……フィル」
彼女は家主のフィルを見上げた。
「……この犬、飼っちゃだめですか?」
「ぶふっ」
フィルは盛大に噴き出した。
フィルは簡単に頭を差し出す白い犬を、眉をしかめて怪訝そうに見た。
犬は先ほどからフィルの視線なんて恐れる様子もなくあしらっている。
「…………………………致し方ない」
なんとか絞り出された声だった。
「え、綿毛?」
「朝起きたらいなくて……」
癖で綿毛を触ろうとし、満希の手はまた空を切った。
フィルは白い犬をじっとり見てから、ため息を吐いた。
「きっと帰ったんだよ」
満希の顔は、お気に入りのぬいぐるみを無くした子供のようだった。
表情を取り繕うことさえ忘れている。
満希の寂しくなった手のひらに、テーブルの下で犬の毛が掠める。
まるで触ってもいいとでもいうようにおとなしく座り込み、待っている。
満希は頬をほころばせて、背を撫でた。
「それとミツキ、今日からもう一緒に寝なくても大丈夫みたいだよ」
「え?」
フィルは満希を見ているのに、視線は合わない。正確に言えば、満希がいる空間を見ていた。
「魔力もだいぶ安定してきたみたいだ」
満希は日に日に身体が軽くなるのを感じていた。
身体が良くなるのはいいことだ。これで彼に迷惑をかけない。
(身体、この世界に馴染めてよかった……)
満希は安堵していた。
フィルは満希の異様な気配に押し黙る。
霧神様の加護といい、何かおかしい。
フィルは、白い犬を冷たい目で見ていた。
「ありがとうございました」
「……ううん、よくなってよかった」
満希は、犬の毛先を撫でた。
喉の奥が少しだけ落ち着かない。ただその理由は分からなかった。
満希が入浴中に、風呂場のドアの前に陣取る犬をフィルは見つけた。
「風呂待ちなんてデリカシーないですよ、霧神様」
フィルは心底呆れた顔で、犬に話しかけた。
犬はフンっと鼻をならし、彼の視線をあしらった。
「今まで僕の家に近寄りもしなかったのに、入ってくるなんて」
フィルは頭が痛くなり、こめかみを押さえる。
フィルの目からいつものやわらかさが消え、鋭い光が宿った。
満希と出会ったあの日から、ずっと胸の奥にこびりついていた違和感。
精霊たちに異常なほど愛され、神の領域の境界線を見極めてしまう、裏側の世界から来た女の子。
「……霧神様」
フィルは低く、凄むような声で犬を見下す。
「あの魔力は、どういうことですか」
満希自身の魔力は、神聖な霧神様の魔力と混ざり合っていた。
犬は微動だにせず、目だけでフィルを見上げる。
「……あの子をどうするつもりですか」
うるさい部下を煩うように、犬は長い鼻先をそっぽに向けた。
だが、その満月色の瞳は、どこか遠くを見つめるように冷ややかに光っている。
しらを切る犬に、フィルは苛立ちを隠せなかった。
風呂のドアが開かれ、髪が濡れたままの満希と目が合う。
少し火照った頬と、張り付いた髪がやけに色っぽい。
薬草を混ぜた石鹸の清潔な甘い香りが立ち込める。
フィルも同じものを使っているはずなのに、違うものに感じた。
また見てはいけないものを見た気がして、フィルは慌てて目を逸らす。
「フィル……その、ごめんなさい」
申し訳なさそうに満希はフィルと視線を合わせた。
「これ、……壊しちゃったみたいで」
髪を乾かすドライヤーのコードが何かにかみ砕かれた跡がある。
犬を見ると、またあの顔で満希を見ていた。
「本当にいいんですか?」
「うん、風邪ひいちゃうよ」
満希は背を向けて、フィルの前に座った。
ドライヤーが壊れたため、フィルの魔法で彼女の髪を乾かすことになった。
フィルは、杖で何か描くようになぞりあげていく。
しばらくすると、どこからかあたたかい風がでてきた。
薬草を混ぜた石鹸の香りがする。
彼女の髪を撫でると、髪が徐々に乾いていく。
糸のようにすり抜ける黒い髪を何度も指先でなぞり、フィルは無心に乾かしていく。
「フィル、……怒ってます?」
「え、……え?!……ち、違う」
フィルは、彼女の髪から手を離した。
嗅ぎなれた石鹸の淡くて優しい匂いが彼女からする。
彼女の長い髪が風で揺れ、触れたい気持ちをこらえた。
「それにしても、ドライヤーは裏人さんが発案したんですね」
「そうだね。不便だったんじゃないかな」
魔力が込められた石につないで、いつも通りに使える唯一のものだった。
それが壊れた今、簡単に髪は乾かせない。
「……髪切ろうかな」
満希は胸まで落ちた黒い髪を指先で弄った。
「え?!」
「ワフッ」
フィルと犬の声が重なった。
申し訳なさそうに見上げる犬がかわいらしく、満希は笑いそうになるのを堪える。
悪いことをしたら、目を合わせてはいけない。
「だめだよ、こんなに」
フィルは、もどかしくなって黒い髪を掬う。
指をすり抜けていく感覚は、今まで味わったことのない手触りの良さだった。
「こんなに、綺麗なのに……」
フィルはたまらなく恥ずかしくなり、誰が見ているわけでもないのに顔を逸らした。
満希は、褒めてくれた自身の髪を見る。
「(この世界で黒髪は珍しいかな)」
いざというときにお金にならないかと満希は自分の髪を見つめた。
ここまで閲覧ありがとうございます。
2章はここまでとなります。
3章は月曜日の19時10分から公開予定です。
また明日12時頃には、新作短編を公開予定です。
ご縁がありましたら、そちらでもお会いできれば嬉しいです。




