第13話
白い草原にいた。
あたたかな風が、満希を包み込むようにやさしく吹き上げる。
(――同じ夢)
瞼を開けば、満月色の瞳と目が合う。
建物のように大きい白銀の狼は、甘えるように大きな鼻先を寄せた。
満希はその鼻筋に額を寄せた。
満希は心地よさに浸りながら、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界が結ばれた瞬間、息を止めた。
――すぐ目の前に、フィルの寝顔があった。
指先はいつのまにか絡まり、フィルの大きな手とつながっている。
彼の手をそっと離し、起こさないように布団から抜け出した。
「(……びっくりした)」
満希は真っ赤な顔で、自室の扉を閉めた。
一緒に寝てから、3日経った。
毎晩気恥ずかしさを覚えながら、やっと眠りやすくなってきたのに。
朝目が覚めるたび、距離が近くなっている気がする。
「(もしかして私、寝相悪いのかな……)」
着替えて鏡の前に立つ満希の顔色は日に日に良くなっている。
仕立て屋の孫娘リリンが選んだ、澄んだ色のスカートを撫でた。
彼の大きなあたたかい手と、少年のような寝顔を思い出し頭を振る。
忙しいフィルが、魔力酔いを治してくれている。
余計なことを考えてはいけない。
「これは君宛てみたいだよ」
2人で朝食を取っていると、フィルは白い小鳥たちが運んだ手紙の1つを彼女に渡した。
満希は淡い色の封筒を受け取り、不思議そうな顔をする。
破れないように封を切り中を開けると、大きな文字がふにゃふにゃに並んでいた。
「……リリンちゃん?」
差出人はリリンのようだ。封筒には手紙と一緒に野花の押し花が入っていた。
久しぶりに押し花を見た満希は、心が洗われる気持ちになる。
もう一度便箋を見つめ、何度も文字をたどる。
「……読めない」
こちら側の世界は、違う文字だ。
リリンが一生懸命何かを書いた痕をなぞり、切ない気持ちになる。
「代わりに読もうか?」
彼の善意を、満希は首を振る。
「フィル、辞書はありませんか?」
「これが、わたし。あなた。ミツキ。リリン」
フィルは辞書を片手に、羽ペンで表側の世界の文字を連ねていく。
満希は並べられていく記号のような文字を静かに見つめた。
それは日本語ではなく、英語に近いイメージだった。
フィルがペンを動かすたびに、満希は机をなぞり静かに文字を指で刻む。
フィルは彼女を盗み見ると、伏せられた瞳は真剣だった。
「ここを押さえとけば、読みやすくなると思うよ」
「ありがとうございます、フィル」
満希は洋皮紙を食い入るように見つめていた。
彼女の熱心さに感心し、フィルは邪魔しないように朝の巡回へ出た。
「『おねー、ちゃん……は……』」
フィルは昼ごろに戻ると、机に向かう満希の姿があった。
朝出ていったときから、そのまま置いてあったように全く動いていない。
「『はやく……』……これは、さっき見た文字の……」
フィルは満希を後ろから覗き込むと、数枚の洋皮紙にはびっしり文字がつづられていた。
真っ黒な紙に、フィルはぎょっとする。
「『会いたい……です』……だ、きっと」
満希は解読を終え、喜びでちいさな息を吸う。
リリンの小さな手で綴った文字は、いびつで愛らしい。
読み上げた手紙をリリンの想いごと、そっと抱いた。
「読めた?」
「はい、フィルのおかげです」
リリンを想うやさしい笑顔を向けられ、フィルはわずかに頬を染めた。
満希は、それから返事を書くために辞書とにらめっこをして一日を過ごした。
彼女の集中力に、フィルは感心を通り越して驚いていた。
朝から同じ集中力が、晩までつづくのだから。
「ミツキは熱心だね」
布団の中にもぐった満希は、本が積みあがった彼の部屋を思い出し、苦笑いをする。
「ミツキは学校で優秀だったでしょ?」
「普通です。数字の計算とか苦手でした」
「そうなの?僕は、魔法史とかすごく苦手だったよ」
机に向かって勉強するのは学生ぶりだったと気が付く。むしろ夢中になったことが久しく感じた。
苦手な教科、好きな教科。
普段口にすることの無くなった言葉が、懐かしい気持ちにさせる。
眠たい眼をこすり先生の話に耳を傾ける、昼過ぎの心地よさ。
放課後の夕焼けの教室で、みんなで輪になってささやき合った想い出。
どうでもいい噂話や、好きな人の話。
教室の空気まで思い出し、学生へ戻った気分になる。
満希は、胸に抱いた綿毛の毛先を指先でいじった。
「……フィルは学校で彼女とかいたんですか?」
フィルは思いっきりむせた。
脈絡のない話に、フィルは驚きすぎて目が冴えてしまった。
「な、なんでそんなこと聞くの」
「学生のとき、そういう話好きだったので……」
心なしか弾んだ声にフィルはさらに驚く。
意外だった。人の恋バナが好きだなんて意外すぎる。
沈黙が降りて、フィルは居心地悪そうに頭をかいた。
彼は逆にこの手の話が苦手だった。
「僕は、……勉強をしに行ってたんだ」
暗闇の中、ぶっきらぼうな声が聞こえて満希は笑った。
まるでクラスメイトの男の子みたいだった。
学校のこと、住んでいた街のこと。
満希がいた裏側の世界の話をするたびに、思い出ごと遠くなっていくのを感じる。
ただ熱心に、楽しそうにフィルが聞いてくれると、綺麗な思い出へと磨かれていく気がした。
暑苦しくなり、フィルは目が覚めた。
(――まただ)
連日、夜中に目が覚めると必ず傍に彼女がいた。
最初の日は、温度を探すように手を握られ。昨日なんて、腕を持っていかれた。
自分の手が、満希の小さな両手の間にすっぽりと挟まれた時は、大変だった。
今日の満希は、フィルの胸に潜り込むようにぴたりと額をくっつけていた。
フィルは文字通り、凍りついた。
彼女の方へと投げ出された自身の手は、今にも彼女を包み込みそうだった。
早鐘のように鳴り響く心臓で、満希が起きてしまわないか心配になる。
起こさないように離れようとすると、手を引かれる。
異様な力に視線を向けると、霧神様の精霊が、ふわふわの身体を押し合い2人を寄せ合っている。
「……君たちだな」
ここ連日の不可解な事件の犯人を見つけて、フィルは呆れかえった。
たしかにそばに寄るほど魔力は早く馴染むけど。
外で虫が歌う声や、葉の重なり合う音がいつもより聞こえてくる。
洗い立ての布のような清潔な甘い匂いがする。
胸元のあたたかい温度に、寝てしまいそうな心地よさと耐えがたい羞恥心が押し寄せた。
(離れないと)
頭では分かっている。
眠っている女性とこんな体勢でいるなど、紳士のすることじゃない。
「………………はぁ……」
どうしようもなく、枕に深く顔をうずめた。
目を閉じれば、彼女のやわらかさや温度を明確になぞってしまう。
(……離れたくない)
フィルは、満希の頭のてっぺんを見た。暗がりで見えないが、人の気配を確認する。
満希だからなのか、それともただ人の温もりに慣れてしまっただけなのか。
今のフィルには判別がつかない。
ただ、ぬくもりがなくなった朝の感覚を、今は味わいたくない。
離れるはずだったフィルの大きな手が、満希の頭にそっと触れる。
さらさらとした糸のような髪が、指先をくすぐった。
人の温度を知れば、ひとりに戻れない。
頭の中で何度も警鐘がなっている。それを抗える力を、今のフィルには持っていなかった。
――この温もりを手放すのが、今の彼は、ただただ怖かった。




