四十六話 努力する
クロの戦闘能力はまだ新人冒険者レベル。どうやらドリミアのもとで、まともな訓練を受ける機会もなかったらしい。だが逆に、変な癖がついていなかったのは幸運だったといえる。
依頼の後は訓練場に向かい、クロに合わせて基礎鍛錬を積んでいく。汗と砂埃にまみれながらも、クロは決して音を上げることなく、初心者なりのペースで黙々と鍛錬を続けた。その姿に、確かな覚悟と成長への意志が宿っていた。
鍛練を終えたあと、食堂でクロは湯気の立つパンやスープを前に、ぽろぽろと涙をこぼしながら一口ずつ味わっていた。頑張った体と心に染みわたる温かさに、こらえきれないものがあったのだろう。
三人で食事していると、ブレイブがミリュと共に相席してきた。
「ギルドマスターが、もうすぐアイクの誕生日だって教えてくれたんだ。この前、ドリミアの罠にまんまと嵌ってしまったお詫びと言うか、普通に誕生日会を開きたいんだけど」
「……お前は子供か?」
ブレイブはアイクの家で誕生日会を開く計画をシロやクロ、ミリュと話し合い、手早く意見を纏めていく。アイクが持ち合わせていないコミュニケーション能力は天と地ほどの差があった。
クロを引き取った手前、三人で暮らすことが正式に決まった。
それに伴い、かつての部屋を離れ、広々としたワイドキングのベッドが置かれた部屋に移り住んだ。
家賃は上がったが、今の彼らにとっては問題にならない出費だった。
部屋はシロの強い希望で、風呂付きだ。蛇口をひねれば、ためらいなく湯が流れ出し、浴槽をあたたかな蒸気で満たしていく。
だがアイクは、風呂に浸かるという行為に意味を見出せず、いつものように桶に水を入れ、静かに体を拭き始めた。
その様子にシロは、怒気を孕んだ声で詰め寄る。
「ちょっと、それじゃあ風呂付きの部屋にした意味がないでしょうがっ!」
次の瞬間、アイクの体はひょいと持ち上げられ、湯気立ちのぼる風呂の中へと沈められた。
月明かりがかすかに浴室の窓を照らし、湯面にほのかな銀色の反射を落とす。
シロもすぐに服を脱ぎ、お湯に浸かると肌の熱を移すようにアイクの胸元にそっと身を寄せた。
湯気の中、静けさだけが広がる。
シロは額にかかる雫を指でぬぐいながら、そっとアイクを見上げる。湿気によって濡れた髪、引き締まった身体、安心感のある無表情……。いつもとは違う艶が滲んでいた。
熱い湯のせいなのか、それとも隣にいるアイクのせいなのか、いつも以上に白い肌に赤みが増す。
「あ、アイク様、私も入って良いでしょうか……」
シロと比べると貧相な体を気にしているクロは体を隠すように布を抱き、視線を反らす。彼女はアイクに性欲がないと、シロから聞かされていたが、それでも素肌を見せるのは緊張するようだ。
「なにを気にしている。気にせず入ればいいだろう」
アイクの許しの言葉を聞くとクロの耳はピンと立ち、尻尾は大きく左右に揺れる。
木製の浴槽に張られたお湯に浸かり、アイクのもとに寄ると、お湯の暖かさと人肌の安心感が合わさり、天国にいるのかと勘違いしそうになるほど、表情が和らいだ。
クロは躊躇いながらもシロの仕草を真似てアイクの腕の間に滑り込んだ。音のない風呂場の中で、彼女はアイクの胸にそっと頬を寄せる。
アイクの呼吸と呼応するように胸が上下する。その、ゆっくりとした動きがクロの表情をより一層、穏やかにした。
だが、それと同時、クロの頬はわずかに紅潮していく。無意識のうちに、無表情で湯に浸かるアイクの横顔を、見つめていた。
その横顔は、まるで何も考えていないようでありながら、彼の太くたくましい腕はクロを静かに抱きかかえている。
あの夜、アイクと交わしたキスの感覚が一瞬にして蘇ったのか、クロの目が見開かれ、白い肌がより赤らむ。
開いていた左手をぎゅっと握り、クロは胸に当てた。
「クロ、こうなったら共闘関係を結ぶわよ」
「へ? きょ、共闘関係……って、どういうことですか」
風呂上り、アイクは乾いた布で体に着いた水滴を拭き取り、広くなったベッドの縁に座り込んだ。
ゆで卵のようにつるつるで真っ白な肌に黒い下着を身に着けたシロが、慣れた様子で彼の前に堂々と立つ。
「あ、あの、その、ええと……、私、アイク様のためなら何でも一生懸命に頑張ります!」
クロは頬を真っ赤に染めながらも、新品の白い下着を身に着け、ガチガチに緊張しながらアイクの前に立っていた。
強い者に惹かれやすい獣族といえど、冷静で滅多に燃え上がらない森の民の血も流れておりどれだけ雰囲気がよかろうと、簡単に流されないはずだった。
股の上に布を置き、鋭くも透き通った藍色の瞳を持つアイクの視線がクロに向けられる。よく切れるナイフの腹を肌に当てられているような冷たさ。半裸の女が二人立っているにも拘らず、まるで興奮している様子は見て取れない。
隣にいるスタイルがいいシロに明らかに見劣りしていると、クロはわかっていた。アイクの視線が彼女の喉を詰まらせる。ふわふわの尻尾が下がり、表情も暗く、耳がへたっていく。
「クロは俺の奴隷という訳ではない。俺の体質を治すために特に何もしなくていい」
その言葉にシロの耳がピンと立ち上がり、無自覚に口角が上がる。
部屋は夜の静寂に包まれている。窓の外に薄雲に霞んだ月がぼんやりと浮かび、そのかすかな光が、部屋の空気を冷たく、しかしどこか幻想的に照らした。
クロは何事もなくベッドに寝ころび、ひんやりと冷たい枕に頬を当てながら膝を抱える。
シロはせがむように「もう我慢できない……」と小さな声を出し、アイクの首に腕を回しながら股に座り込んだ。躊躇なく唇を重ね、アイクの性欲を刺激しようと舌を絡ませる。
クロの隣から唇が重なり合う音が何度も響く。
何が起きているのか、背を向けているクロからは正確にわからない。ただ、隣で交わされているアイクとシロのやり取りが、自分の知らない……、いや知っているが未だかつて足を踏み入れた覚えのない世界だということだけは、感じ取っているのか尻尾を強く抱きかかえる。
夜の空気は静かに流れていく。シロの甘い声が響くたび、クロの瞼がぎゅっと閉じられ、ベッドに敷かれた白いシーツを握りしめる。
クロが静かに横たわるすぐそばで、アイクとシロの唇が触れ合う微かな音が、途切れることなく続いた。
やがて、シロが媚びを売るようなアイクに甘える声を出すと、指先で水を掬うような控えめな水音が部屋に響き始める。
続けざまにシロの喉から出る、息を詰まらせているにもかかわらず苦しさがない吐息により、部屋の湿度が増していく。
夜の帳がすっかり降りきった中、言葉は交わされない。
『精霊眼』のないアイクにシロが『状態:絶頂』に陥ったかわからなかった。そのため、加減がわからずシロが連続で『状態:絶頂』に陥り、彼女の意識が軽く飛んでしまった。
「『精霊眼』がない弊害があったな……」
心の休まる時間が一瞬で終わってしまった。その時、アイクは左目に触れ、『精霊眼』の重要性に気づく。だが、それは『精霊眼』に頼り切っていた己の落ち度に他ならない。
もとから『精霊眼』に反応しないクロに視線を向ける。
――彼女の状態を知れば、多少なりともシロの状態も察せるのではないか。
だが、首を横に振るう。クロは奴隷ではない。シロも奴隷という訳ではないが、彼女に同意を得ているため問題はない。
――『精霊眼』の力に頼り切るのではなく、相手の気持ちを察せるよう努力する必要があるな。




