四十五話 強く抱きしめる
アイクが一番よくわからない顔である泣き笑いが二つ。とりあえず、泣き止ませるために、彼は子供を抱きかかえるように腕を二人の背中に回し、後頭部を撫でた。
「こんなところで泣いている暇があったら、外で訓練でもしていろ」
「こんなところで泣いている暇があったら、外で訓練でもしていろだってっ!」
アイクの言葉をオウム返しし、シロが勢いよく言い放つ。琥珀色の瞳は涙の跡を残しながらも、その声音は寝起きのアイクの目を一発で冷ますほど力強かった。
「むぅうっ! わたしが、どんな思いでそばにいたと思っているのっ!」
込み上げる感情を抑えきれず、シロの声がわずかに上ずる。
「そうですよ! 二日間も目を覚まさないなんて……。もう、このまま二度と起きないんじゃないかって……」
クロの声もまた堪えるように打ち震え、アイクが目覚めただけで黒い瞳が潤いを増す。
二人の言葉が矢継ぎ早に飛んできて、アイクは何も言い返せず、まるで陽に干されたしなびた野菜のように、しゅんと縮こまる。
ひたすら泣き喚いた後、シロとクロはアイクに言われた通り、家の外で訓練を始めた。
その間、三年ぶりに母の手料理を口にしたアイクは、静かに食事を終えると傷跡の増えた冒険者服を身にまとい、何事もなかったかのように玄関に立った。
その背中は、再び旅に出る者の決意と、どこか幼さを滲ませた静けさが宿っていた。
「アイク、行ってらっしゃい。無茶ばかりしては駄目よ」
母の声は柔らかく、それでいて少し強張っている。
「ああ、わかってる。……心配してくれて、ありがとう。行ってきます」
そう返すアイクの声は、いつもより穏やかで優しかった。
その言葉を聞いた瞬間、母はアイクに背を向けたまま、そっと両手で顔を覆った。こらえきれないものが、あふれ出しそうになるのを、見せまいとして。背中越しに伝わる想いは、言葉以上に暖かく、深かった。
外に出ると、シロとクロが戦い合っている。シロの方がクロより強い。
だが、クロも悪くない動きだった。加えて森の民の娘ということもあり、彼女は魔法が使えた。獣族と森の民のいいところを両方受け継いだらしい。
アイクの左目は癒えておらず『精霊眼』による情報は得られない。だが、もともと道案内の力くらいしか頻繁に使っていなかったため移動が少々面倒になるだけだと気に留めていなかった。
「クロ、ちょっといいか」
アイクの呼びかけにクロはすぐに反応し、忠犬のごとき速度で彼の前に立つ。名前を呼ばれるだけで尻尾が揺れてしまい、じっとさせられないようだった。
アイクの子供のころの服が丁度入ったため、青少年のような男性の服装を身にまとっている。シロのように大きな胸がないのが幸いした。
アイクはクロから受け取っていた『精霊の翅』を取り出すと、彼女の首に掛け直す。すでに、鉄首輪は機能していない。保有者がいないため彼女は自由の身だった。
「あ、あの、アイク様、これはどういう……」
「大切な品なんだろう。俺が持っていても意味がない」
母の形見が自分のもとへ帰ってきたことに気づいた瞬間、クロの大きな黒い瞳がたちまち潤む。歯を食いしばって涙をこらえようとするが、それはすぐに決壊した。
アイクはそんな彼女の頭に手を置き、そっと撫でながら言葉を続ける。
「クロにどれだけ辛い過去があろうが、俺は知らん。生きている限り、生き続けなければならない。もう二度と大切な品を手放さなくてもいいよう強くなれ。安心しろ、お前は強くなれる」
その言葉が胸に深く染み込んだのか、クロの涙はさらに溢れ出す。
アイクはそれを泣き止ませるために、ぎゅっと抱きしめ後頭部を摩る。だが効果は薄く、むしろ一層泣かせた。
背後から、ため息まじりの声が響く。「……まったく、泣かせすぎよ、アイク」とシロが呆れ顔でつぶやいていた。だが、その目元にも、うっすらと光が滲む。
クロは王都への帰路を迷いなく進む。どうやら彼女は、その道のりをしっかりと覚えていたようだった。ただ、アイクは少々……いや、かなり歩きにくい状況に陥っていた。
彼の右腕にクロが、左腕にシロがしっかりとしがみつく。まるで仕事に行く父親に抱き着く娘のよう。
「……二人とも。なぜ抱きついている」
アイクが困ったように問いかけると、返ってきたのは気の抜けるような返答だった。
「べ、別に。理由とかないけど!」と、シロがつんとそっぽを向く。
「私は、アイク様に一秒でも長く触れていたいだけです」と、クロは芯の通ったはっきりとした口調で答えた。
「クロ、お前はもう自由だ。俺のもとにいる必要はないだろう」
アイクがそう告げると、シロがすかさず割り込む。
「そ、そうだよ! アイクの奴隷はわたし一人いれば十分なんだからねっ!」
シロの瞳は『アイクにくっ付くな、むねぺったんこ犬』と言いたそうに、クロに向けられる。
だがクロは、一歩も引かなかった。
「むぅ……でも、シロさんがアイク様のそばにずっといたら、シロさんが毎日発情して仕事にならないと思います!」
その言葉を言い切った瞬間、羞恥心にかられたのかクロの顔が一気に真っ赤になった。勢いよく首を横に振り、大きく深呼吸する。
そして数歩進んだ後、彼女はアイクの右腕をそっと離す。アイクの前に立ち止まった。
すると夏が近づいてくるような暖かく柔らかな風が草原を撫で、雲の隙間から陽射しが金色の粒となり王都に続く道に舞い降りる。『精霊眼』がなくとも道は光輝いて見えた。
「私は、アイク様にすべてを捧げる覚悟です。この御恩は、一生かけて返すしかありません。どうか、これから末永くよろしくお願いします!」
クロは一番に口を開く。一切の迷いがなく、ハキハキとした口調で話す。その間、アイクの瞳をずっと見続けていた。
彼女の態度はゆるぎない。過去のすべてを乗り越え、新たな人生を歩み出すために必要なことだと言わんばかりに頭を深々と下げる。
「クロがそうしたいと決めたのなら、俺に口出しする権利はない。好きにするといい」
「あ、ありがとうございますっ! 本当に、ありがとうございますっ……!」
アイクの言葉に、クロは感極まったように頭を一度上げた。だが、その後、何度も下げながら、繰り返し礼を述べる。
その姿を横目に、シロは笑顔を浮かべながらも、額にぴくりと静脈を浮かべた。
アイクが色仕掛けに一切動じない男だと、誰よりもよく知っている。新たな女がそばにいようと簡単に心が動かされるような人ではない。だが、だからこそ気は抜けない。
これまでシロに向けられていた眼差しが、これからは分けられるだろう。
その事実が、シロの琥珀色の瞳に確かな熱を込める。だが、一方で女が二人になれば、アイクの中に眠る本能を揺さぶれるのではという淡い期待が尻尾を揺らす。
クロよりも見てもらうために、仕草も、体も、言葉も、すべてを、もっと女らしく、もっと魅力的に、今まで以上に磨かなくてはならない。
シロはアイクの左腕をより一層力強く抱きしめる。
☆☆☆☆
アイクとシロの冒険者パーティーに、クロが新たな仲間として加わった。ウルフィリアのギルドで再登録の手続きを済ませる頃、すでにブレイブがすべての事情をキアズに報告しており、アイクから伝えるべきことは何も残っていなかった。
クロの冒険者装備や日用品は、マドロフ商会で手早くそろえた。準備が整うや否や、すぐに依頼を受け、パーティーは再始動する。
かつてアイクは、ただ強さを求めて依頼をこなしていた。
だが今は助けを求める者たちのために剣を振るい、感謝の言葉を受け取れるようになっていた。その変化は、彼の淡泊な生活に彩を添える。




