四十三話 ありえない
アイクの正義と大切な者を、これからじわじわと壊していく。それがどれほど脆く、無力で、くだらないものかを思い知らせるために。
「……殺さんよ、今はね? せっかく復讐できるのに簡単に壊すのはもったいないやろ?」
アイクの希望を、尊厳を、存在ごと削り落とす。その瞬間、アイクがどんな顔をするのか、何よりのごちそうとして取っておく。好きな食べ物は最後まで残しておくタイプだった。
だが、アイクの体が触れられる距離にまで近づくと体が金縛りにあったように動かなくなる。
……胸に漆黒の刃が突き刺さっていた。
「はっ?」
クロの鳩尾付近に突き刺さっているブラックレイリーはアイクの半分も満たない胸部を貫通していた。黒い剣身が背中に生えている両翅の間から飛び出し、赤い血を纏いながら存在を主張している。
「……な、なんでや」
クロの口から行き場を失った血が流れ出る。胃や肝臓、動脈にも傷が入り、致命傷なのは間違いなかった。
未だに金縛りが解けないようで、身動きが取れないドリミアはカマキリの尻が水に浸かると現れるハリガネムシのように、死が間近に迫るクロの体から分離し始める。
ブラックレイリーによる攻撃の威力はドリミアが身に染みてわかっている脅威だ。それゆえに魂が聖剣を拒絶し、少女の体から全て抜け出ていく。
クロの体から離れたドリミアは神のような姿ではなく元の姿だった。
どうやら神樹の魔力はクロに呼応し、その力は彼女の肉体にそのまま宿っていた。
「あぁあぁっ、やってもうたなぁ、アイクくん! わいを倒すために、無垢な少女を殺しよった! 世界を守るためやったら、犠牲は厭わんっちゅうことかいなっ!」
ドリミアはクロから完全に分離。そのまま、状況を把握するためバカのように叫び散らかすが、アイクの表情は一向に変わらない。
アイクは意識が遠退いているクロの体を意識もろとも引き寄せるように左腕で強く抱き、ウェストポーチから小瓶を取り出す。
かつてミリュから受け取り、半分だけ残っていた媚薬だ。
エリクサー並の回復力を持つならば致命傷を負っていようとも回復させられる。
彼は媚薬を口に含む。クロの胸からブラックレイリーを抜き取り、半開きになっている少女の口に、唇を躊躇なくかぶせた。
少女が飲み物を反射的に吐き出してしまうと以前にポーションを飲ませた時に知っていた。この薬は一本しか持ち合わせていなかったため、確実に飲ませる必要があった。
満月が天の中心で静かに煌めく。その銀の光に照らされながら、精霊の姫と剣を携えし勇者が、まるで時の流れを忘れたように、唇を重ね続ける。
命の奥深くにまで届くような、切実で純粋で、それでいてどこか絵画のような静寂が広がる。
クロの胸元から流れ出ていた血は徐々に止まり、傷口は塞がる。
やがて、まつげが揺れ、クロがそっと瞼をふっと開いた。黒い瞳に反射するのは、アイクの藍色の瞳。それだけで目が大きく開いていく。
そんな中でも、唇はまだ重なり続けた。
「……っ!」
焚き火が爆ぜるように、クロの耳と尻尾がビクリと跳ね上がる。頬がじわじわと朱に染まった。
だが、見開かれた瞳は、やがてその熱に溶けるように、とろりと細まる。
呼吸の境界が曖昧になるほど続き、一分近い口づけが終わる。
アイクは表情を一切変えることなく唇を放した。
「ど、どないなっとんねん。あの傷が……なんで、あそこまで早よ治っとるん……」
ドリミアは、アイクから離れ、空に舞う。未だに理解が追い付かない中、コウモリのような翼を必死に広げ、体勢を立て直した。
その様子を、アイクは無言で見下ろす。クロを静かに抱き、体を安定させ、まるで揺るぎない柱のようにどっしりと立っていた。
「ドリミア。お前は他人の命を弄びながら、自分の命だけは必死で守ろうとするんだな」
ドリミアの行く先を悟るが、同情や情けなど一切感じられないあまりに静かな声だった。
「当たり前やろ……!」
ドリミアは顔を歪め、喉の奥で笑うようにして言い返す。
「他人の命なんか、踏めば潰れる虫けらやんけ! 今日死のうが、明日死のうが、代わりなんかいくらでもおる! けどな、わいの命は、世界にひとつしかないんや! 大事にして何が悪いっちゅーねん!」
その言葉に、アイクの眉がぴくりと動いた。
「確かに長い間を生きてきたお前からは、ゴミにしか見えないかもしれない」
「……せや。わかっとるやん」
「だが、俺からすれば、皆、お前と同じひとつの命だ」
地上に生えた大森林の木々が燃えている影響で熱い風が吹き荒れる中、それ以上にアイクの言葉に熱がこもる。
「尊い命を踏みにじるお前を、俺は絶対に許さない」
アイクはずっと閉じていた左目すらも見開き、燃えるように熱のこもった右目と血塗られながらもドリミアの悪意を見透かす左目の視点が合わさる。
並の者ならその圧力だけで押しつぶされそうになる中、ドリミアは全身に汗を掻き、瞳孔を小刻みに震わせるだけだった。
身近に迫った死の気配。だが、空を自由に飛べないアイクが相手ならば空中戦で勝機があると無理やり見出す。
今のアイクの能力値や種族値がドリミアの視界に表示されず、何が起こっているのか理解が追いついていなかった。
彼はそのような経験を昔、一度だけ経験した覚えがあった。
魔王と相対する勇者の情報は一切見られなかったのだ。目の前の男が勇者として覚醒したのかすら、わからない。
月あかりに照らされた漆黒の剣身はクロやティンティの翅が発する七色の光を吸い、白い聖なる輝きを放つ。
ブラックレイリーが本来の姿を晒し、マグマのように燃える地上、微動だにしない満月、何もかもが、魔王が打ち取られた光景と重なっていく。
それはまるで魔王を打ち払った勇者その者……。
「ふざけるな、ふざけるなっ! たかが人間風情が、わいを見下すなやっ!」
ドリミアは黒い魔法陣を空間に生み出し、足場にして勢いよく跳躍。翼を羽ばたかせながら黒い魔力で生み出した双剣を握りしめる。
他者を踏みにじることでしか生を実感できない彼は生理的に受け付けない憎き勇者の首を掻っ切ることしか頭にない。
「感情的になった方が負ける」
アイクは迫りくるドリミアの顎に鋭い蹴りを一撃入れ、上空に流した。
強烈な一撃に脳が揺れ、手足が動かないドリミアの体は月と被り、黒い陰のように見える。
「嘘や……、ありえん……。あんな雑魚に……、わいの完璧な作戦が……」
ドリミアは震える瞳孔を下に向け、アイクを睨む。砂時計の砂が落ち切ろうとしているのが目に見えるようで、視線が泳ぎまくっていた。
何とかして生き延びる方法を長い間、生きてきた脳内で必死に探すように、口を動かす。しかし、出てきた言葉は今までとまるっきり違った。
「ま、まって、会心する。今日から、真っ当に生きる。もう、人も殺さん、超絶良い子になる。だから……」
ドリミアの顔にへばりついた笑みは幼児が書いたようにグチャグチャで、様々な感情が混ざり合っており、無表情と同じく読み取れない。
自分が弱者のような言葉を吐いている状況だと気づいたのか瞳が大きく見開かれた時、ブラックレイリーの輝きは最高潮に達していた。
「お前の魂は輪廻に戻ることはない。この場で消える。それがせめて、お前に弄ばれた命の弔いにならんことを願う……」
「ちょ、まっ……っ!」
高く掲げられたブラックレイリーが音もなく振り下ろされる。
「『滅斬』」
音を置き去りにした斬撃は光の筋となり、ドリミアの体を、魂を、この世から抉り取る。
誰かがいた空に残るのは真っ白に抉れた傷と夜の世界を静かに照らす月、瞬く星々だけだった。
アイクがブラックレイリーを鞘に戻すと、音や空気、におい、魔力など、この世を形成するものが強烈な引力によって白く抉れた傷に吸い込まれていき、空間を黒く埋めていく。
全てが埋まると同時、凪いだ水面に雫を一滴落としたような波紋が広がる。強風が吹き荒れ、クロはアイクの体に身を無意識に預けた。
騒がしかったドリミアは髪の一本すら残らず、この世から消えた。ドリミアのゴーレムも次々に崩れていく。砂の城が波に攫われるように、跡形もない。
アイクがドリミアを切ると同時、シロのロングソードが黒いマクロープスの胸を貫き、長い勝負に決着をつけていた。
黒いマクロープスはドリミアのように叫ぶことなく、シロの強さを称えるようにぺッペッぺッと鳴くだけ。両手を広げ、顎を上げながら笑い、背後に倒れ伏した。
「クロ、魔法で雨を降らせられないか?」
「や、やってみます」
クロは真っ赤な炎によって燃え盛る木々を鎮火するため、大空に右手を向け雨雲を作り出した。強すぎず、弱すぎない優しい雨は燃え盛る大森林を確かに潤し、炎を消し続ける。




