四十二話 つまらない
黒いマクロープスとの熾烈な斬り合いの最中、シロの体は傷だらけだった。それでも一歩も退かず、ロングソードを巧みに操り、レベル差がありながら押し込んでいた。その姿から彼女の正義が醸し出されている。
加えて、アイクの正義を信じ抜くと言わんばかりに強い眼力があった。
耳ではなく、魂に直接語りかけてくるような、聞き慣れた声。優しく、力強く、己の正義に揺らいでいたアイクを真っ直ぐ貫いた。
荒くなっていた呼吸が静まる。
「……俺の、正義……」
目の前にいるこの化け物を、放っておくことなどできない。すぐに斃し、これ以上の被害を防ぐ。それが最も迅速で、合理的で、完璧な判断だ……。
少し前までのアイクなら、そう信じて疑わなかった。
だがシロと出会ってから日常は、世界をひっくり返したかのように一八〇度変わった。
強さだけを求めて走り続けていた日々。目的もなく、ただ強くなることだけを自分が存在する価値としてきた。
その道から外れた先に、何が残るのか。かつては考えたことすらなかった。だが今は、違った。強くなることだけが目的だった毎日が、シロの正義に沿うようになった。
己の変化は岩の風化ほど緩やかで、それに明確な判断はつかない。ましてや、以前よりも弱くなっているかもしれない。
かつては、強さこそがすべてだった。ブレイブより強くなれなければ、他の勇者の末裔に価値がない。
だが、今は強さで測れない何かがある。それが何なのか『精霊眼』ですら見えなかった。『精霊眼』をもってしても届かなかった場所に、シロは触れた。
迷い、恐れ、弱さを知ったアイクにも確かな何かがあると彼女が教えてくれた。
――自分はもう、強さだけを求めているわけではない。
「クロ……お前のことなんて、わい以外、誰一人必要としとらんよ……。せやから、もうええやろ? 身も心も、なにもかも……今こそ全部、わいに明け渡してしまえ。お前が隠してきた願いも、憎しみも、嫉妬も、怒りも……全部、ぜぇんぶこの世にぶちまけたらええんや。わいが代わりに、見せたる。こんな糞みたいな世界になぁ、思い知らせたる」
蝶のような翅は、毒の粉をまき散らすように黒い光を撒き、クロの身体を祭壇から高く浮かび上がらせた。すでに枯れ落ちた神樹の頂よりもなお高く、地上のどんな命よりも遠くどこにも帰れない孤高の空に舞う。
「そうそう……クロ、ええ子や。やっと、わかってくれたんやな……」
その声は、まるで子守唄のように優しく、吐き気がしそうなほど冷酷だった。口もとを右手で覆い、必死に笑い声を堪えようとしているように見える。
喉に突っかかった肉を全てのみ込んだような晴れ晴れとした表情を作ると、そこにいたのは少女の皮を被った化け物だった。
「ああ、クロ、もう一生、そこから出てこんでええよ……。ずーっと、わいの中で眠っていたらええ。……ご苦労さん。ほんま、つまらん人生やったなぁ? 誰にも見つけてもらえへん、救ってももらえへん、搾り取られるだけの悲しい存在やったなぁ、クロォ~!」
クロの表情から、もはや少女としての色が失われていた。黒い瞳は虚ろで、口元に浮かぶ微笑だけが、ドリミアの意思の勝利を物語っていた。
「ティンティ、俺を持って飛べるか?」
「む、無理じゃないけどぉ、トンボみたいに早くは飛べないよぉ」
「構わない。あいつの隙を突けるのは、油断しきっている今だけだ」
ティンティはアイクの広い背中にへばりつき、背中の翅に魔力を込める。魔法を使い、アイクの体を軽くすると、翅を動かし空中に浮かんだ。
巨漢のアイクが浮かぶ姿はどこか異質で、背中に生えている綺麗な蝶の翅も相まり、張り詰めた空気を微かに和ませる。
「ご先祖さんと違って、何もできひん剣振り人形のアイクくんが今更何しに来たんやぁ? せっかくの好機も指くわえて見逃してたくせに。まさか、いまのわいと真正面から戦って勝てると思っとるん? ほんま、おめでたい頭のおこちゃまやわぁ~」
ドリミアは勝ち誇ったような笑みが顔に張り付いていた。天から見下ろすような口調でアイクに言葉を浴びせかける。
「今のアイクくんなんてそこらへんの雑魚と一緒に見えるわぁ。ブレイブくんとミリュちゃんの方が何倍も怖い~。あぁ、でも、ドリミア様、申し訳ありませんでしたぁって、跪いて許しを請うんやったら特別に、アイクくんだけでも見逃してやってもええよ~」
ドリミアの安い挑発にアイクは顔色を一切変えず、無言で聞いた。その変化のなさに面白さもなく、ドリミアが唾を吐くように舌打ちすると同時、口を開く。
「……クロが俺に手紙を託したとき本当は助けを求めていたんだろう。それにうっすらと気づきながら、俺は何もできなかった。すまない」
アイクは、クロに頭をしっかりと下げる。地に脚が付いていなくとも、体幹によって不格好にならなかった。
「だが、きみは俺を見限らず、命と同じほど大切な品を俺に渡した」
アイクは胸元から『精霊の翅』を取り出す。月明かりにさらされたその装飾は、七色の光を放ちながら、クロの翅の輝きと呼応するように淡く強く輝きを増す。
アイクの藍色の瞳瞳はまっすぐにクロを見据えた。迷いも、言い訳もない。ただ、目の前にいるクロに誠意を見せる。
「これを持っていたのはきみの父か、母かわからないが、その翅を見て森の民ではないという者は誰もない。鼻が獣族ほど良くない俺からすれば、クロは獣族に見える」
「きも……、何を言い出しとんねん……」
ドリミアが肩をすくめ、せせら笑う。
「にしても、それ、アイクくんが持っとったんか。それがあれば、もっと早くここにこれたのっちゅーのに。まあ、ええわ。今さらそんなガラクタ、どうせ用済みやしな」
アイクはドリミアの言葉を無視し、ただそこにいるはずのクロに言葉を届けるため、腹に響くような低い声で語り続ける。
「きみはこのネックレスを俺に渡した。森の民を少しでも守りたかったからだろう。俺に助けを求めたのも、ドリミアが獣族を襲うのを止めたかったからだろう。その願いに俺は早く気づいてやれなかった」
アイクはそっと『精霊の翅』のチェーンを握り、月光を受けるように突き出す。七色の輝きが、微かに震えている。だが、クロに向けられた藍色の瞳は微動だにしない。
「どうか、もう一度、俺を信じてほしい」
「ぷ、ぷっ……アハハハハッ! アハハハハハハハハハハハハハッ!」
ドリミアはついに腹を抱えて地を転げ回る勢いで笑い出した。高らかに、下品に、喉を潰すような声で笑い続ける。涙を拭いながら、笑い過ぎてかすれた声で叫ぶ。
「あーっはは……っく、ああ、腹痛い……ほんっっまアホやな、アイクくん! 脳まで筋肉でできとるとはこのことやで! おお怖っ、何もできひんアイクくんが『俺を信じてほしい』ってぇ? ブッハハハハッ! とことん笑かしてくれるやん! アイクくん、芸人の方が向いとるんちゃうっ!」
ドリミアは両手を頬に当て、目を潤ませながら赤子のような口調でからかう。
「わたしはぁ~、あぃくしゃまぁを、しんじまちゅぅ~。たった一言で心が救われちゃう~、ってかぁ」
一拍置いて、ドリミアの表情が急変する。笑顔のまま、目だけが冷たく凍りつく。
「残念。クロに、アイクくんの声なんて、一文字も届いとらんよ。あの子の意思? 魂? そんなんとっくに底の底に沈めて、一生這い上がってこれんようにしたからなぁ~」
アイクはその罵倒を黙って受け止めるように、静かにペンダントを胸にしまい込んだ。そして、まるで風に乗る蝶のように、少女のもとへと歩を進める。
ドリミアはその様子をじっと観察していた。
動じた様子はない。アイクがクロの体を傷つけられないと決め込んでいた。何度も殺す機会がありながらそうしなかったからだ。
アイクよりも圧倒的な力を手に入れ、どんな抵抗をされても対処し得る自信が表情ににじむ。
殺すのも簡単だ。指先ひとつで、今すぐにでもアイクを殺せる。だが、それではつまらない。
簡単に殺してしまっては主だった魔王が納得しない。
無表情を絶望に塗り替え、生きている間、永遠に苦しみ続けさせてやっと、アイクの先祖に屠られた魔王が報われると言いたげに、口角を釣り上げた。




