四十一話 主人公
「ごめん、アイク、遅れたっ!」
「もう、ブレイブったら、主役は遅れてやってくるって言うでしょう。こういう時は、間に合ったっていうのよ」
慌てながら謝るブレイブに対し、竜化を解き麗しい姫のような見た目になったミリュはハイヒールのつま先で地面に降り立つ。
彼女は迫りくるゴーレムに小さな拳を直撃させ薄っぺらな氷のように容易く砕く。唾のように軽々と吹き出される炎でマグマのように溶かしてしまう。
「ブレイブ、こいつらを頼む。本体は、俺が倒さなきゃならん」
アイクは左目が赤く染まっているため、左目を閉じた状態でブレイブに意思を伝える。
真っ直ぐな視線を向けられたブレイブは何の心配もしてないと言わんばかりに「わかってる」とだけ呟くと、ミリュと共にドリミアのゴーレムと戦い始めた。
アイクはブレイブに背中を預けると、ヤモリのように囮を残して逃げ出したドリミアを追う。魔神となったドリミアの雰囲気は『精霊眼』がなくとも居場所がわかるほどに異様だった。
ドリミアの体は、まるで木の根のように地面を這い、意志を持つかのように黒く曲がりくねりながら、崩れかけた祭壇にたどり着く。
「はぁ、はぁ、はぁ……、生かしておいて正解やったなぁ……」
その声は、喉が引きつり、不自然な響きが含まれていた。
全身が損傷し、変形に変形を重ね、肉体を維持している。その姿はもはや人間の形を留めていない。
肉体をスライムのように、粘性のある液体に変え、無数の触手が不規則にうごめきながら、クロの口へと絡みつく。
その動きはまるでミミズや蛇、芋虫が這うかのように、ねっとりとした不気味さを放ちながら少女の中に無理やり潜り込んだ。
ドリミアの体がその中に入り込む度、彼女の顔はひどく歪み、助けてと言わんばかりに視線がアイクの方に無意識に向く。
「くっ……!」
アイクは相手がドリミアならば、何のためらいもなくその命を切り伏せられた。だが今、クロの中にドリミアが完全に入り込んでしまった。
クロはその場でのたうち回り、ぼろ雑巾のような服の胸部を無意識に破く。やがて彼女の胸に淡い光を帯びた魔法陣が浮かび上がった。
輪郭は不自然なほど整っており、その中心から放たれる禍々しい色の魔力は、もはや人のものではない。
頭上に光の王冠が現れ、暗い辺りを眩しく照らす。背からは精霊の翅のような、七色に輝く翼が音もなく広がり、王冠の光を透かし、より色鮮やかに輝く。
その姿は、ドリミアの時よりもはるかに神々しく、どこか狂おしいほどに美しい。
新たな神が、誕生しようとしていた。
「あぁ……魔力が馴染む……。さすが、森の民の血が流れとるだけあるなぁ」
発せられたのは、確かにクロの声だった。だが、その響きはどこか空虚で、内側から別の意思がこだまするような異質な重なりを帯びていた。
クロの意識はすでにドリミアに乗っ取られているのか。それとも神樹とドリミア、そして彼女の魂が混じり合い、新たな存在が生まれたのか。様子だけではわからない。ただ、光の影響か、まるで霧の中にいるかのように、輪郭がゆがんでいる。
アイクは息を詰まらせた。『精霊眼』は使えないが、元々クロ相手に使えなかったのだから関係ない。
ただ目の前に立つその存在が、ドリミアが神樹の力を取り込んだ時よりも、遥かに自然で息を飲むほど完成されている。それだけで、今までのドリミア以上の存在に成り代わったといえるだろう。
七色に輝く翅が微かに揺れ、生じる風がクロの黒髪を靡かせる。神々しい。だが、肌を撫でる空気は冷たく吹き、アイクの土砂に汚れた頬に冷や汗がゆっくりとつたう。
まるで、天から降りた災厄を前に、体が恐怖から逃れようと硬直する。
――これは、戦ってはいけないものだ。
本能がそう囁く。敵とわかっていても、身体が一歩、踏み出すことを拒んでいた。体が動かずとも、声は出せる。
アイクは忘れていた呼吸を取り戻し、口を開いた。
「ドリミア、彼女の中からさっさと出ろ」
言葉使いは静かだったが、熱がこもっていた。自然に開いた右目は恐怖に染まっておらず、クロをまっすぐに見据える。
それに対し返ってきたのは、少女の口から漏れた、どこか乾いた声だった。
「出ろと言われて、はいわかりましたって出ていくやつ、おると思ったん? やっぱり、アイク君はあほちゃう?」
口調は軽い。その軽さの裏に潜む冷たい狂気に、崩れかかっている祭壇の周りの空気が張り詰める。乱闘が続く荒れた地上との温度差が激しかった。
クロの右手がアイクに向き、すっと伸びる。その瞬間、まるで内側で誰かが抵抗しているかのように彼女の顔がわずかに歪んだ。
左手が無意識に右腕を押さえつける。それでも発せられた魔法は凄まじく、火球がアイクの右上を擦過し、はるか上空で眩く炸裂した。
爆発は雨雲を蹴散らし、余波で地を震わせるほどの威力だった。時間差で熱風が吹き抜け、アイクの短い髪や冒険者服が激しく靡く。
その威力を垣間見たブレイブは、苦笑い。ミリュの最大火力と同等だった。
ただの人間に触れることすら許されないような異質な格の差が『精霊眼』を通さずとも、わかる。
いまアイクの目の前に立っているのは、もはやかつてのドリミアでも、ただの少女でもない。
それは人間がどう抗おうと到底勝てない者の気配を静かに纏っていた。
「ア、アイク様、私のことは気にせず、切り裂いてくだ……さい!」
ドリミアと意識の綱引きをこなしているのか、クロは息を止めるように身に力を入れ、荒々しい口調で願う。先ほどの助けを乞うような瞳ではなかった。
もう、己のすべてをなげうってでもドリミアを止めなければならないと決意を固めた者の瞳だ。
「私が止められなかったから……、多くの獣族と人が、この男の被害に……、神樹まで……」
クロは躊躇なく舌を出し、自ら噛み切ろうとするが己の手を噛み、自傷を防ぐ。
「勝手に死ぬなっちゅーねん。この力があれば、お前は世界の王になれる……。森の民にも、獣族にも、人族にも……ずっと見下され、汚物のように軽蔑されてきたんやろ? 踏みつけられて、奪われて、黙って耐えてきたんやろう?」
声色はあくまで優しく、まるで虐められている子供に寄り添う大人のようだ。だが、その言葉はクロの心の奥にそっと手を差し入れ、傷口を撫でながら無理やり広げていくようだった。
「世界が憎いんやろう……? わいもそうやった。ずっと、ずっとな。だから一緒に壊してしまおうや。こんな世界、つくりかえてしまえばええんよ。もう、我慢せんでもええ。許さんでもええんやでぇ……」
その甘く湿った声が、クロの口から垂れ出る。悪意を肯定するような言葉が悪夢のように何度も繰り返される。
「あぁぁあ、あああぁぁあぁぁああ……、クロォ、だいじょうぶやぁ、わいが全部壊したるからぁ……」
彼女は膝が抜け、頭を抱えながらしゃがみ込む。心の奥に巣食う異質な存在を吐き出そうともがいていた。
だが、それは靴の裏にこびりついた犬の糞のように、削ぎ落とそうとしても簡単には離れてくれない。
クロの瞳から涙が止まらない。
「みとめない、ぜったい、間違っているのに……、いやぁああっ」
獣族と森の民、そのどちらにも属しきれず異端として扱われてきたのがクロだった。
どこにも居場所はなく、寄り沿い強く生きていた両親さえも、人間たちの手によって奪われた。
誰にも愛されず、何も守れず、ただ存在していることすら許されていないようだった。
「お前はぁ、最初からいらない存在だったんやぁ。なら存在してもいい世界にすればいい……」
クロの嗚咽とドリミアの腐った果実のように甘く酸っぱい言葉が混ざり合う。現実と悪夢の境界が曖昧になっているのか、クロの意識が崩れかけているようだった。
「アイク様、は……やくっ! 私の意識があるうちにっ……お願い……っ! 私を殺してっ!」
声は悲鳴のように震え、必死に誰かを信じようとする最後の希望が、彼女の喉から絞り出される。
その声にアイクの左目の端から、赤い血が一筋、静かに流れた。
頬を伝うその血は、まるでクロの痛みが理解できるとでも言わんばかりに熱く、重く滴る。
右手に握られたブラックレイリーの柄が微かに脈動し、急かすような圧が腕を振るわせる。
彼の持つ聖剣は動けと告げている。だがアイクは動けなかった。その場に立ち尽くしたままだ。
そんな時、アイクと誰よりも深く寄り添い、母と同じか、それ以上に彼を理解している女の声が響いた。
「アイクっ! 迷う必要なんかないっ……。あなたの正義を、信じた道を貫いてっ!」
戦場の喧騒を切り裂くように、シロの叫びがアイクの耳に届く。




