三十八話 逃がさん
「わいの願いは、魔王様の悲願をかなえることや。……アイクくんのご先祖さんに殺された、あの御方のな」
振り返ったドリミアの赤い瞳が、まっすぐアイクを射抜く。まるで冗談の通じない獣に睨まれたようで、空気が張り詰める。
その瞳は、明確な殺意が宿っていた。だが、それは突発的ではなく歪んだ信念とともに、何年、何十年、何百年とかけて発酵した、澱のような悪意だった。
腐り切り、どろどろに熟成されたそれは、もはや当時の勇者に向けられた怒りでも、魔王を失った憎しみでもない。
ただひとつの目的だけを燃料に動く、冷たい執念の塊。
「始めて見た時はびっくりしたわ。魔神様が微笑んでくれたと思た……。この手で、魔王様を殺した勇者の末裔を殺せるなんて、想像しただけで射精しそうやっ!」
ドリミアが叫ぶと、クロは髪を引きちぎり、ドリミアの腕に噛みつく。黒い血液が滴り落ちる。だが、そんなこと一切気にせず、ドリミアは口を開いた。
「時は満ちた。幾千の夜を越え、幾百の血を重ね、今、我が願いはこの地に結実する。神樹よ虚飾の恩寵を捨て、真なる力の器たれ。深き闇より応えよ、忘却されし王《ヴァル=オルグ》。この身は門、この血は鍵。汝の御座、ここに再び刻まれん」
ドリミアが魔術の詠唱を始めると、空気が一変し、辺り一帯に巨大な魔法陣が展開される。初めはひとひらの光から始まり、次第にその輪郭が膨れ上がり、数層に重なった複雑な紋様が空中に現れた。
青白い光が、無数の細かな符号を描きながら、まるで生きているかのように蠢いている。魔法陣の中央に、闇そのものが吸い込まれていくような深い空間が開かれ、周囲の空気が歪んで見えるほどの圧迫感を放っていた。
その魔法陣は、ただの光の図形ではない。周囲の空間を支配するかのように渦を巻き、強烈なエネルギーがその一片一片から放たれ、時折、ひどく引き裂かれるような音を立てた。
すべてがその光に呑み込まれそうなほど、輝きを放つ。
アイクはその光景を目の当たりにし、背筋が引きつる。
――今、詠唱を完遂させてしまえば、何か取り返しのつかないことになる。
ドリミアは詠唱に夢中で、獣族の少女に意識を一切向けていない。この隙間を見逃すわけにはいかない。
アイクは瞬時に判断した。
――動くなら今しかない。
踏み出すべき一歩を刻む音が、地面から微かに響いた。
「……神を騙りし樹よ、今ここに契りを断ち、葉を枯らし、血を流し、その核を晒せ。我が呪により、永劫の力よ目覚めよ。『エル=ナ=ヴァルグ=ドゥラン』!」
詠唱の終了と共に神樹の魔力を全て集約したような光の塊が現れる。
アイクがドリミアの首にブラックレイリーを振りかざした瞬間、ドリミアの胸に刻まれた魔法陣に光の塊が吸い込まれた。
アイクは魔力の圧力に吹き飛ばされ、祭壇を勢いよく転がる。
体勢をすぐに立て直し、ドリミアをみやると空が蠢き、大地が震え、森のすべてが一斉にざわめく。
神聖な光を放っていた神樹の根は瞬く間に赤黒く染まり、幹や枝、葉に至るまで暗く変色していく。
「ハハハハハハハハハハッ! 素晴らしい、実に、素晴らしいっ!」
ドリミアの肉体は膨張し、骨が軋む音とともに異形へと歪んでいった。皮膚はひび割れ、その隙間から神の光ではなく、禍々しい闇が漏れ出す。
冒険者服を突き破りながら背に広がるのは樹木の根と血管を融合させたような無数の触手で作られた翼。
頭上に、王冠のように浮かぶ光輪。ただし、それは純白ではなく、歪み、禍々しく脈打つ漆黒の環。
彼が息を吐くだけで空に雷雲が立ち込め、火花のような紫の霧が地を這う。
それはもはや人知を逸脱していた。神と呼ぶにはあまりに穢れた存在。まるで天の秩序を侵す災厄の化身が、いまこの地に降臨したようだった。
アイクの『精霊眼』にドリミアの姿がありありと映る。
『名前:ヴァルゼリオス(ドリミアは偽名)。種族:魔神(仮)。レベル:90プラス100(190)。種族値:力:100プラス100(200)。魔力:180プラス100(280)。耐久:100プラス100(200)。速度:140プラス100(240)。能力値:力:944。魔力:1248。耐久:944。速度:1096』
先ほどより化け物に成り代わっていた。ブレイドやミリュ以上のレベル、種族値、能力値。つまり、アイク自身よりはるか高みの存在。人間が神を目にした時、普通の者ならどう思うのかアイクは想像できなかった。
「そ、そんな……、し、神樹が……」
クロはドリミアの方ではなく、枯れ果てた神樹の方に視線を向けていた。あの木がなくなったらどうなるか、アイクは知らない。目の前の化け物を倒せば元に戻るのだろうかと、悠長に考えている暇もなさそうだ。
「『ファイア』」
ドリミアが、ハエでも払うように右手をアイクへとかざした。無駄な力みも、構えもない。ただ静かに腕を上げただけ。それだけで、足場に違和感が生れるほど空間がわずかに軋む。
炎が生まれた。初級魔法の『ファイア』とは名ばかりで、アイクの目前に現れたのは、一軒家ほどもある炎の塊。爆発的に膨張するそれは質量を伴って迫りくる災厄のようだった。
アイクは即座にブラックレイリーを振るい、炎を斬り裂いて周りへの影響を抑え込む。だが次の一撃は既に発射されていた。二発目の『ファイア』が、間断なく空間を抉るように迫る。
ブラックレイリーを振るうより速く、炎が炸裂。
咄嗟に背後に跳ね、直撃は免れたが、祭壇が粉砕されるほどの威力と木々が大きく靡くほどの爆風が吹き荒れ、彼の身体は容赦なく飛ばされる。
ドリミアは、枯れ果てた神樹の前に立ったまま微動だにしない。浮かべる表情は笑み。まるで結果など初めから見えていたと言わんばかり。視線だけはアイクを追っていた。
「なんやこれ、なんやこれ……。息するみたく魔法が出る。……おもろ、ほんまおもろ! もう、神やんっ!」
ドリミアの掌は、まるで的が一つしか存在しないかのように、終始アイクに向けられていた。彼は一歩も動かず、ただ指先から、火・水・雷・氷・風・土・光・闇の八つの属性を次々に、ためらいなく撃ち出す。構えも詠唱もなく、呼吸のように淡々と。
火球が地面を灼き、滝が空から降り、雷が空間を裂く。本来は初級に分類される魔法が、一撃ごとに地形を削り、建造物を瓦礫に変えていく。その出力はもはや初級魔法とは呼べない。
ドリミアにとって、今のこれはただの検証だろう。出力、速度、反応。あらゆる条件を試すように属性や角度、速度を変えながら、魔法を撃ち続けている。
アイクをただ殺すのではつまらない、加えてこの程度で死ぬ人間でもない。ただ純粋な好奇心と手に入れた力の確認作業を繰り返す。
容赦がないのではない。そもそも加減という概念が試し撃ちの中に存在していないだけだ。
「炎から逃げるように走れ!」
アイクはドリミアが放つ魔法をブラックレイリーで切り裂いていく。生憎、切れないものはない。炎や滝、雷、全てを真正面から受け止める。
肌が軽く焼け、濡らされた後、全身を刺す電撃が走る中、喉が裂けんばかりに叫んだ。一歩でも対処が遅れれば誰かが攻撃に巻き込まれる。その現実が、喉の奥を締め付けるように迫っていた。
森の民たちはアイクの声を信じ、まだ燃えていない森の奥へと駆け込んでいく。アイクの背中に、幾つもの足音が過ぎていくたび、ドリミアの表情に変化が現れる。
「逃がさへんよ……。お前らがおらんかったら魔王様が勇者に勝っとったんや。お前らさえおらんかったらなっ!」
過去を思い出したかのか、肩を極度に震わせるドリミアの指先が初めて森の民に向けられる。
闇夜を裂くように、ドリミアの指先が発光した。まるで太陽が地上に降りたかのような鋭い光が、瞬く間に辺りを白く染め上げる。光というより灼熱そのものが形を持って集まりつつあるようだった。
もう、ただの魔法ではない。神の振りかざす天災のような荒れ狂う自然の怒りの如く。
肌が焼けるような熱と、空気を圧縮する重圧が距離を隔てているはずのアイクにまで押し寄せる。
ドリミアの攻撃を、身を挺し防ごうと身構えた頃。




