三十七話 ドリミア
ティンティの導く光が、かすかな希望のように前を照らす。
視界が開けた瞬間、そこは人間の建てたものとは思えない、異形の美しさをもつ建物が並ぶ幻想的な村が広がる。
だが、見るも無残な光景が合わさり、静寂の帳が破られていた。
炎は上がってはいないものの、悲鳴と怒号、破壊音が空気を引き裂き、赤色の液体が炎のように地を染める。
ティンティに似てはいるが、翅を持たず、人間ほどの背丈に成長した者たちが、キメラや黒いマクロープスたちに襲われていた。
魔物が家屋の壁を突き破り、中に逃げ込んだ者を引きずり出す。倒れた者に容赦なく牙が振り下ろされ、村のあちこちに悲鳴と赤が飛び散る。幻想の中に住まう美しき村は、今まさに悪夢へと塗り替えられようとしていた。
「やめてぇっ……、お願い、もうやめてっ……! みんな、逃げてぇぇっ!」
叫び過ぎて掠れてしまっている声はアイク以外に誰にも届かない。
クロが、涙と血でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、巨大な神樹の根元に築かれた祭壇に倒れ込んでいる。
「ハハハハハッ、愉快やなぁ、ほんま笑えるわ! 泣いて喚いても意味ないってのに、なんや今の。最高の見世物やんけぇ!」
クロを踏みつけたまま顎をしゃくり上げ、下卑た笑いを響かせる男がひとり。
その姿は冒険者の服をまとっていながら、もはや人間の皮をかぶった化け物だった。露出した肌は煤けたように黒く、瞳は赤く濁り、理性の光など微塵もない。
頭部に太く湾曲した角が二本、獣のように突き出ており、人間というより悪魔の方が近い。
その笑い声は様々な音が鳴り響く中でも耳を突くようにはっきりと響き、フォークで皿を引っかくような不快さを孕んでいた。
クロの悲鳴も苦しみも、奴にとってはただの余興。命を踏みにじることを楽しむ、純粋な悪意の塊に見える。
奴のすぐ近くに学園から逃げ出した黒いマクロープスも立っていた。
アイクは『精霊眼』を素早く辺りに向けるが、襲われている者たちの情報は得られない。おそらく、彼女たちが森の民だろう。化け物に攻撃したいところだったが、状況が状況のため周りを無視できない。
アイクの足取りは稲妻のように鋭く、暴れまわる魔物やキメラに瞬時に狙いを定め、ブラックレイリーを振り抜く。
彼が動くたびに雷が落ちたような衝撃が生れ、森の民を襲う者がことごとく切り裂かれた。
森の民からは、アイクの姿が一瞬の閃光のように見えただろう。
冷徹なまでに戦場を支配しながらも、その手に無駄な力を込めることはない。すべては一瞬で片が付き『精霊眼』とアイクの経験によって導き出された軌道に従うようにブラックレイリーが走るだけで、敵は次々と倒れていく。
その姿はまさに、絶望の中に現れる希望そのものだった。
「はぁ……、きょうざめするわぁ。ほんま、アイクくんはどれだけ邪魔したら気がすむん?」
「お前は、ドリミアだな」
アイクは祭壇に立つ悪魔のような者に鋭い視線を向けた。
その者は、口角を吊り上げるように笑い、鋭い牙をむき出しにした。笑顔はまるで挑発的な子供のようで、無邪気さを欠いたその表情は実に腹立たしい。
長く尖った耳を無造作に掻き、その手から耳糞を振り飛ばす。彼の目はだらしなく半開きで、全てを見下しているようだった。
そして、低い声で「先輩の顔、忘れたんかぁ?」と呟く。その言葉に混じった皮肉と嘲笑がアイクの表情を曇らせる。
彼が発する音は、どこか不快で汚らしく、彼自身がまるでその場の空気を汚染しているようだった。全身から放たれる不遜さが周囲の空気を重くし、景色の美しさを台無しにしている。
「ま、今更隠してもしゃあないし、その便利な目で見たらええよ」
アイクは言われた通り『精霊眼』に力を籠めドリミアの姿を見る。
『名前:ヴァルゼリオス(ドリミアは偽名)。種族:魔人・魔王の配下。レベル:90。種族値:力:100。魔力:180。耐久:100。速度:140。能力値:力:269。魔力:413。耐久:269。速度:341』
ドリミアの情報を見た瞬間、肌に纏わりつく湿気が粘ついたものに変わった。
アイクは無意識に口を結び、直立不動の構えをとる。
ドリミアが立って息しているいるだけで、地面が微かに震え、鼓膜を打つ風圧が生れた。
目線が合わさると肌が粟立ち、皮膚が異物に触れたようにざわめく。まるで、アイクの肉体が敵の存在を拒絶しているかのようだった。
それでもアイクは、ブラックレイリーを握りしめたまま一歩も退かない。全身に力が入り、筋肉が張り詰める。冒険者服がギチギチと音を立て、そのまま張り裂けそうそうなほど突っ張る。
息が荒くなり、汗を掻く。
一八年生きて来てブレイブやミリュと肩を並べるほどの強者を前に、否応なしに血が沸き立っていた。
――そうか、俺は今、興奮しているのか。
「そんな身構えんといてぇなー。別にアイクくんを取って食おうって思っとらんよ。まあ、せっかくやし、観客になって貰おかな」
ドリミアはクロの髪を鷲掴みにして持ち上げると、ショートソードを首元に当てる。血の気の引くその刃先に、どこか楽しげに目を細めている彼の顔が反射した。
「その場から動いたら、容赦なく掻っ切る。脅しやない、本気やで」
「アイク様、私のことは気にせず今すぐこの男を殺してくださいっ!」
「せっかく家族に会わせたったっちゅーのに、待てひとつできんとはなぁ。ほんま、しつけのなっとらん糞犬やで」
ドリミアはそう言いながら、クロの獣耳の端をわざとらしく撫でるようにショートソードの刃を這わせた。細く冷たい金属の線が毛や肌をなぞり、紙が裂けるように入り込んでいく。
クロの顔が歪み、歯を食いしばりながら痛みに耐えていた。黒髪を伝う赤い血が頬を濡らし、涙のように顎から滴り落ちる。
その黒い瞳は死んでいない。身を小さく震わせ、泣きそうになりながらも叫んだり、わめいたりせず、じっとしている。自分が助からなくとも、ドリミアさえ倒せればそれでいいと言わんばかり。
だが、アイクは動けなかった。少女を人質に取られた今、剣は振えない。少し前の彼ならば、躊躇わなかっただろう。助けを求める声に耳を塞ぎ、情けを切り捨て、ドリミアを切るためなら少女が死ぬかどうかは二の次。迷いも、後悔もなかった。
それが今はどうだ。
足が前に踏み込めない。彼の行動が、クロの命と繋がっている。その事実で、さらに体が動かなくなる。
「剣振り人形っちゅーわりには、ずいぶんと情け深いんやなぁ。たかが奴隷一匹で腰引けるとか、ほんま笑えるわっ!」
「ドリミア、お前がパックスに薬を売りつけ、獣族の収集に手を貸した張本人だな」
アイクの言葉に、ドリミアはあっさりと肩をすくめて応じた。
「当たりやで。パックスに薬流したんも、獣族集めに協力したんも、ぜーんぶわいや。おかげで掘り出し物が見つかって、めっちゃ儲けもんやった」
その視線は、黒髪の獣族の少女に向けられる。赤い目の奥が、獲物を舐め回すような光でぎらついていた。
「わい、ちょいと特殊な目を持っとってな。鑑定ができるんよ。アイクくんのご立派な目ほどやないけど、精霊や森の民の情報もばっちり見抜ける。で、この奴隷を見たらすぐわかったんよ。森の血が混じっとるって。そらもう、笑いが止まらんかったわ」
ペラペラと語り続けるドリミアの口調は、悪びれる様子もなく、むしろ得意気だ。その足は、何万年と命を繋ぐ神樹へと向かい、ついには指先で幹に触れる。
「この子のおかげで、ここまでこれたんや。……いや~、命って、使いようやなあ」
「ドリミア、お前の目的は何だ。なぜ、ここまでする!」
アイクの声は力が入り微かに震え、喉の奥に押し込めた殺気が滲んでいた。
剣を握る拳は白くなり、血の気を失うほどに力がこもっている。息は荒く、場を威圧するような呼吸音が静寂の中に響いた。
彼の藍色の目はドリミアをまっすぐに射抜く。殺意ではなく、死んでいった者たちの意味を見出したいといういら立ち、そして理解したくないという拒絶。
人間として、それでも問いかけずにはいられなかった。それほどまでに、ドリミアの行為は、理性では割り切れない何かを越えていた。




