三十一話 何かの前触れ
眠っているふりをしていたシロは、最初はただ静かに横になっているだけだった。
だが、アイクの手が肩に触れ、シーツをそっと掛けてくれる優しさに身が跳ねた。
すぐ隣にいる触れるか触れないかの距離感が、彼女を惑わせる。そして額に、何のためらいもなく落とされた、おまじないのようなキス。そこで何かが、音もなく切れた。
「……っ、もう無理!」
シロは夜襲に襲われた時のように勢いよく目を開けた。琥珀色の瞳はギラギラと輝き、眠気などもとから微塵もない。
「アイク……覚悟して」
低く呟いたその声の直後、シロは勢いよく上体を起こし、アイクに飛びかかった。
我慢に我慢を重ねた末の爆発。それはまるで猛獣のような勢いで、抑えていた気持ちがもうどこにも収まりきらなくなっていた。
アイクは襲われている間、シロを撫でず、彼女の性器の中に指を入れ弱点を刺激したり、乳首を摘まむ引っかく舐めるなど、彼女の要望を聞くだけだった。
散々『状態:絶頂』になり、ひとしきり感情をぶつけたあと、シロは体からすべての熱が抜け落ちたかのようにベッドの上でぐったりと横たわる。
シロは抑えきれなかった衝動に、甘えに、幼さに、そして何より、それを受け止めてくれたアイクの存在に、涙があふれ出て止まらない。あのキスひとつで心も体も臨界を越えてしまった。
「どうして、我慢できなかったんだろう……」
シロはベッドの上で膝を抱えながら蹲る。ひとつだけはっきりしたのは、性欲を抑えることは、空腹や眠気と同じくらい本能的で、難しいということだった。
外に人気もなく、微かに草木の揺れる音が窓から吹く風に乗り、部屋に広がる。その穏やかさが、かえってシロの肌をざわつかせた。
どこまでも静かな夜の中、泣きながら息を整えるシロの声が部屋に響く。
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黒いマクロープスが逃げ出してから一三日がたち、多くの冒険者たちが情報を集めているが有力な情報はない。
それどころか、人々の村や街に今まで以上の被害が及んでいるとの報告がキアズのもとに入る。
ブレイ部とミリュは縦横無尽に国内を飛び回り、人々を救っていた。
アイクとシロも自分たちができる範囲で捜索し、黒いマクロープスの痕跡を追った。
早朝から受付に顔を出し、依頼を受けようとしているとドリミアがブレイブとミリュに接近している状況と鉢合わせる。
「いやあ、ブレイブくん、最近がんばりすぎやない? ちょっとは奥さんのこと考えたらな」
「ほんとほんと、最近は仕事ばっかりで全然デートできていないんだから」
ドリミアの言葉にミリュも乗っかる。
ブレイブはミリュに顔が上がらないため表情を引きつらせながら笑っていた。
「他の人のために働くのもええかもしれんけど、奥さんは大事にせなあかんよ」
ブレイブは「は、はい……」と声にならない呟きをこぼす。
「これ、王都の超高級ホテルの宿泊券。ギルドマスターから渡しておいてって言われたんや。たまには、二人でゆっくりしてきいや。その間、わいが二人の分まで頑張って働くから」
ドリミアは人に好かれる笑顔を作り、ブレイブに宿泊券を押し付けた。
ギルドマスターの好意を無下にするわけにもいかず、ブレイブは宿泊券を受け取り、ミリュに抱きつかれる。
アイクがブレイブたちの方に視線を向けていると、黒髪の獣族であるクロが前に現れる。
全身に打ち身や擦り傷が目立ち、所々の毛並みは泥と血にまみれて固まり、見るからに疲弊している。体も拭いていないようで体臭を嗅いだシロは思わず「うっ……」と声を漏らしながら鼻をつまんだ。それでも傷を負っている彼女に話しかける。
「大丈夫? 手当てしてもらったほうがいいよ」
「あ、あはは……、ちょっとね……」
当たり障りのない笑みを浮かべるクロにアイクは再度、『精霊眼』を使う。やはり情報は得られなかった。情報が得られないのは仕方がない。だが、怪我人を放置しておくわけにもいかなかった。
ウェストポーチからポーションを取り出し、赤子に哺乳瓶でミルクをやる時のように回復薬を口に流し込む。
だが、クロは口から回復薬を床に吐き出した。尻尾が股の間に挟まるように丸まり、耳もへたり込んでいる。その場にペタンコ座りし、吐き気を催した時のように小さく震えていた。
条件反射が 起こったように見える。毒物や熱い品、腐った品を食べた時、体が拒否する反応だ。
危険物ではないと獣族の彼女ならすぐにわかる。だが、吐き出してから気づいたようで、表情を顰めた。
「す、すみません。な、舐めて綺麗にします……」
少女は四つん這いになりながら床に吐き出した回復薬を舐め始めた。安い品ではなく、床に零れようとも効果は変わらないが、清潔とは言い難い。
シロが止めに入り、アイクは新しいポーションを手渡す。
クロの傷は一本目の回復薬の影響で先ほどより緩和された。
アイクが差し出したポーションは受け取らず「もったいないです」と一言。加えて「わ、私、黒いマクロープスを見たんです……」とも。
そう言う彼女の声は痰が喉に絡まった時のように、出しにくそうだった。
かすれるような口調で村の場所を告げる間、彼女の視線はどこか遠くを彷徨い、アイクたちの目を正面から見ようとしなかった。
アイクは『精霊眼』で彼女の嘘を見抜こうとするも、情報が出てこない。
クロの頬はこわばり、眉間に深く皺が寄る。話している最中も喉を何度も鳴らし、唇を噛みしめていた。目尻に浮かぶ涙が今にも滲みそうで、息をするたび肩がわずかに震える。
――なぜ彼女は、これほどまで怯えているんだ。俺が怖いのか……。
威圧感のあるアイクを怖がる者は一定数いた。少女となれば、なおさら大男のアイクを怖がる傾向にある。
クロの姿を見て、アイクとシロは視線を合わせた。
たとえ嘘だったとしても、クロの話はただの作り話にない言葉の重みがあった。
結局、アイクたちはクロの真意を確かめる術もなく、その村に向かう判断を取るしかない。
「アイク様、先ほどはポーションをありがとうございました……。今、渡せるのはこれしか」
クロはドリミアの方に耳を向け、こちらに意識を向けていないのを知ると尻尾の付け根辺りに手を持って行く。何かを取り出すと、アイクの手に握らせた。
情報を貰った手前、ポーション分の働きはある。そのため、アイクは報酬代わりのそれを返そうとしたが、すでにクロはドリミアの元に戻り、ウルフィリアギルドからいなくなった。
手の平に残された品は、ネックレスだった。繊細な蝶の羽を左右に広げた形状で、中央に宝石がひとつ配置されている。『精霊眼』に力を入れると情報が表示された。
『名称:精霊の羽根。素材:虹色に光る「神樹の樹脂」で作られた半透明な羽根。宝石:神樹の種が結晶化したもの。効果:魔力が増加。その他:森の民の証。植えればやがて神樹となる』
「な、なんか、人が作った品じゃないみたい……」
シロはアイクの手に乗ったネックレスに目を奪われていた。
「これは人が作った品じゃないからな」
獣族の少女がなぜこのネックレスを持っているのか、アイクは理解できなかった。『精霊眼』の説明通りながらこのネックレスは『森の民の証』だ。
――運よく拾ったのか? いったいどんな確率だ……。
アイクは目を細めながらも、話は帰ってからでも聞けると判断し、クロから聞いた情報源の方を優先した。
「今から、あの獣族に教えてもらった場所まで行く。気を引き締めろ」
「今のわたしなら、あのマクロープスに勝てる気がする」
当時よりもレベルが上がり、ロングソードの扱いにも慣れたシロは両手を固く握り、目を吊り上げながら笑った。
梅雨が明けそうな時期だというのに、外はまるで真逆の景色だった。
空は一面、鉛のような暗い雲に覆われ、朝だというのに日の気配など微塵もない。
時折、雲の奥で青白い光が走り、稲光がその輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
雨は止む気配もなく、地面を激しく叩き続けた。
舗装された道に跳ね返る水の音が、一定の拍を持たず耳を打つ。風も強まり、雨脚に混じって木々が軋む音が遠くから響く。
水をはじきやすい外套を羽織っていても全て防ぎきれず、服の内部にまで浸透してきた水が肌に纏わりつく。
全身だけではなく呼吸や踏み出す一歩さえ重みが増す。
空を見上げれば、ただの悪天候では片付けられないような、説明のつかない圧迫感があった。まるで、何か悪いことが起きる前触れのように。
アイクとシロは外套のフードをしっかりと被り直し、村に向かう。




