二十九話 シロはシロ
アイクは何も言わず、黙ってその涙を受け止めている。ただそっと、あたたかい手を額に添えた。その静けさが、シロを優しく包み込んだ。
救えなかったものは戻らない。
だが、今、何もなかったことにして逃げ出してしまえばそこで終わってしまう。惨めに泣きださないようになるために、強くなるしかないのだ。
自分を受け止めてくれる存在がいると知ったシロはベッドに横たわり、掴んだままのアイクの手を離さず、かすかに微笑んでそのまま眠りについた。
アイクは彼女にシーツを肩まで掛け、しっかりと休ませる。
強くなるための道のりは辛く険しい。多くの者が途中で諦め、現状維持を選択する。
だが、アイクは来る時のため、現状維持という選択肢はない。シロも自分のちっぽけさに打ちひしがれ、力のなさを痛感しただろう。だが、彼女は泣くたびに強くなる。おそらく、また強くなるだろう。
シロに負けないよう今からでも鍛錬に行こうとするが、シロがアイクの手を頬に当て、逃がさないようにくっ付いていた。そのため、身動きが取れなかった。鍛錬よりも、シロを起こさないほうを選ぶ。
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梅雨真っ盛り。黒いマクロープスが逃げ出してから八日ほど経っていた。
今日も雨が降り、シロが目を覚ますと朝から体にしっ気が纏わりついている。表情に爽快感はない。
髪もごわごわして、みすぼらしい羊のような寝癖が付いている。重りを背負っているような身のこなし。
加護があるためアルコールの影響ではなく日ごろの疲れがたまっているだけだった。最近、仕事ばかりで休んでいない。
「休もうよ。王都の今日は休日でしょ」
アイクはシロに朝起きた途端に言われ、確かに仕事ばかり受けていたと頷く。
「じゃあ、今日は好きに過ごすといい」
アイクはベッドから無言で身を起こし、運動着を纏うと訓練場に向かった。
早朝、そこに誰もいない。重く鈍い鍛錬用の剣をひたすら振るう。刃が空を裂くたび、筋肉がきしみ、額には汗が滴り落ちる。
呼吸は徐々に乱れ、湿気の多い空気がより湿度を増す。
だが、アイクは止まらない。何も考えず、ただ己の肉体を磨き上げるために動き続ける。
動いている間だけ、何かを考えずに済む。だからこそ、休日はいつもこうだ。誰とも会わず、静止した時間の中で剣だけを振るっている。
空気が微かにざわく。肌を撫でる風が妙に重い。
――同じことの繰り返しは、意味があるのだろうか。
剣を振るうたび、その太刀筋は研ぎ澄まされていくが、彼の動きの中にすでに無駄は一片もない。息を吸うのと同じほど、単なる繰り返しだった。
「アイク、デートしよ、デート!」
アイクが剣を振っている目の前でシロが飛び跳ねる。彼女に向けて剣を振るい、攻撃するもシロは紙一重で躱し、誘い続ける。
いつの間に買ったのか黒が基調のロングケープ付きのワンピースを着こんでいた。光沢のある革靴を履き、冒険者の雰囲気は皆無。貴族の屋敷で働いている者のように身なりが整っており、遊ぶ気満々だ。
「デートしたところで強くなれないだろう」
「もしかしたら、性欲が湧くかもしれないでしょ」
デートした覚えはないため、アイクはシロの発言を否定できなかった。
「わたし、アイクのこと、強くて優しいくらいしか知らない。だから、もっと教えて」
知っていれば対処できる、知っていなければ対処できない。そのため、シロは今まで以上にアイクを知る必要があった。
どうすれば、彼の感情を引き出せるのか探る。
彼女は必死だった。毎晩、毎晩『状態:絶頂』になっても、あの時の夜に受けた衝撃を越えられない。『状態:絶頂』はただ、気持ちよくなっているだけ。
あの時は互いに繋がり合えていた。媚薬に頼らず、あの時の繋がりに似た何かを得るために琥珀色の瞳はアイクに真っ直ぐ向けられる。
アイクはシロのやる気に満ちた瞳に突き動かされ、デートに了承する。運動着からいつもの服装になったが、シロに駄目だしされ服の買い出しから始まった。
マドロフ商会にある程度お任せし、全て購入。
乗馬風パンツとタイトなシャツ、背丈を生かしたロングジャケットを纏い、黒いブーツで全体を引き締めている。
アイクの私服を始めて見たシロは鼻血が出そうなほど、顔が赤らんだ。
梅雨時のため、二人で傘に入り、人気のない王都の中を歩く。
傘を持つアイクの腕にシロがしがみ付いていると恋人より、父親と娘の雰囲気の方が近かった。特に目的もなく歩いているだけだが、アイクの隣にいるだけでシロは尻尾を揺らし、笑顔が絶えない。
遅めの朝食を得るため質の良さそうな喫茶店に足を運んだ。食べすぎないように注文を少なめにする。
固めだが薄く切られ軽く食べられるパンと果物、珈琲を注文。雨の音が店内に響く楽器の演奏と合わさり、シロの猫耳がふにゃっと動く。
「アイクは何で王都に来たの?」
「特に理由はない。しいて言えば直感だ」
「じゃあ、子どものころの夢は?」
「……考えたこともない」
「えぇ、何かあるでしょ。お金持ちになりたいとか、可愛い子と結婚したいとか」
「俺が普通だったら、母さんに迷惑はかけなかったと思う時はあったかもな。今更だが」
アイクは出された朝食を得て、珈琲を飲み静かに呟いた。
母親を思いやるアイクの優しさ。その何気ない思いや言葉に、シロの表情は明るくなり、股をぎゅっと閉じながらも、尻尾は上を向き続ける。
これまでシロは、無骨で無表情に見えたアイクの中に、こんなにも深く温かな想いがあったなど知る由もなかった。
知らなかった一面を垣間見た瞬間、シロの瞳孔が広がり、息が荒くなる。アイクに向ける視線が、さっきまでと違い、特別なものを見るような温かみを帯びる。
朝食を終えたころ、雨が小雨になっていた。傘を差さず、買い物に向かう。
シロは少々むくれていた。「雨のバカ……」とまた、環境に小声でつぶやいている。
王都の大市は今日も変わらず大通りに沿って開かれているが、雨に濡れる石畳を歩く人影はまばらだった。
いつもなら賑やかな掛け声や客のざわめきが絶えないはずの通りも、今はどこか静まり返っている。
じっとりと濡れた天幕の下で、商人たちは品物を守るように身を縮め、暇そうに通りを眺めていた。
そんな中、アイクとシロはゆっくりと歩きながら、商品を一つひとつ見て回る。
シロは宝石が付いた指輪やネックレス、性能と美しさを兼ね備えた腕輪に視線が向かう。
「こんな品を付けて戦えないな」
常に戦いを意識しているアイクに呆れられながら宝石の輝きを目に焼き付けていた。
ときおりまばらに振る雨の音が耳に心地よく、しんとした空気が、むしろ落ち着きをもたらす。人の少ないこの静けさも、たまになら悪くない。
犬や猫のペット用品を扱う店も軒を連ねていた。王都では今、犬や猫を飼うことが流行しており、貴族から市民まで、誰もがこぞってお気に入りの犬や猫を連れ歩いている。
通りを見渡せば、雨時でもふわふわの毛並みをなびかせた小型犬や、優雅に肩に乗る猫の姿も珍しくない。
ペット用品の店先に、宝石のような装飾が施された首輪や、細工の凝ったリードがずらりと並び、通行人の目を引く。まるでペットもまた、持ち主の品位や流行感度を示すファッションの一部と化しているかのようだ。
それぞれの店が、今が旬とばかりに最新のデザインを競い合い、王都の通りには可愛さと華やかさがあふれていた。
「獣族の奴隷に首輪をつけて、夜に特殊なプレイを楽しむおかたもおられますよ~。奴隷をペットのように扱うと、いつもと違った感覚が味わえますが、いかがですか~」
シロは店主の発言を聞き、首に着けている鉄首輪に触れた。アイクにペット扱いどころか、奴隷扱いさえ、されたことはない。
だが、もし今の彼にそんな扱いされたら、どうなってしまうのか。
冷徹な眼差しで見下ろされ、沢山頑張ったらご褒美に頭を撫でてもらう。そんな夜も悪くない。
シロは鳥肌が立ち、背筋を反らす。妙に熱い視線を、アイクに向けた。
「こいつはペットじゃない」
アイクはシロの肩を抱き、ペット扱いしてくる店主に鋭い視線を向ける。威圧感たっぷりで店主が泡を吹いて気絶しかけた。
「ま、前は、……よく懐いた猫って言っていたじゃないか」
「シロはシロだ。よく懐いた猫のような奴だと思っていただけだ。それがどうした」
その言葉に、シロの頬が一気に赤く染まった。肩に添えられたアイクの腕に入る力が、いつもより強い。
彼女の視線は自然に泳ぎ、耳と尻尾がビンビンと立ち上がっている。腰が抜けそうな小さな震えを堪えるために、唇をきゅっと結ぶ。




