二十八話 喉が鳴る
アイクは静かに息を整えながら、紅蓮の咆哮を上げるレッドワイバーンと対峙する。
理性を失い、ただ破壊の本能に支配された魔物。その巨体からは焼けつくような魔力があふれ出し、周囲の石畳を赤熱させていた。だが、アイクの瞳は揺るがない。
彼が一歩踏み出すと風が逆巻く。左腰に掛けられたブラックレイリーの柄に右手を添え、鞘から引き抜く。漆黒の刃が光を集めた。
――考える前に、これ以上、被害を出してはならない。
次の瞬間、地を裂く爆音とともに、疾風となって飛び出した。音のない強烈な斬撃がレッドワイバーンの首を両断。静寂の中、ブラックレイリーを鞘に納める。
倒しても色は変化せず、レッドワイバーンは覚醒した状態のまま力尽きた。
アイクが戦っている最中、シロは崩壊した建物から聞こえる微かな声を聴き、すぐに人命を救助する。
魔物を瞬殺したアイクも救助活動に加わり、多くの命を救った。
何かしら情報を得るため、アイクは人々に話しかけ、黒いマクロープスや狂暴化した魔物が現れた状況など聞きだす。
黒いマクロープスの存在は知らない者が多かったが、狂暴化した魔物が現れた状況の情報は多く得られた。
ただ、どれも空から忽然とやってきたというだけで、有力な情報とは言いづらい。
アイクとシロは次の地へと足を運び、休む間もなく新たな依頼を片付けていった。
だが、訪れる先々で目にする光景は、いずれも言葉を失うほど凄惨だった。『状態:覚醒・暴走』になっている魔物や獣族が見境なく暴れている。
焼け落ちた集落、泣き叫ぶ子ども、地に伏したまま動かぬ騎士の姿。
かつて賑わいを見せていたであろう広場は、今や黒煙と灰に包まれ、人の気配すら薄れている。
依頼をこなすたびに首を絞めつけてくる悪意のとぐろ。
自然現象にしては多すぎる、別々の犯人だとするとやり方が似すぎている。明らかに同一犯の仕業だ。
魔物が多いものの『状態:覚醒・暴走』している獣族も存在し、髪が黒くなり理性が崩壊した様子だった。
「もしかしたら、救えるかもしれない」
そう呟いたシロの眼差しは、かつての弱々しさはなく静かな決意が宿っていた。
あの日、何もかも奪われた少女は、獣族に対し殺意ではなく拘束を選ぶ。
その判断が彼女の正義だ。痛みを知り、憎しみを越え、それでもなお手を伸ばそうとするその姿に、確かな成長の光があった。
そんな中、アイクは暴走した獣族の足や肩の腱を切り、殺さない方向に剣を振るっていた。
自覚したのはシロから指摘された時だ。己の正義がいつの間にかシロの正義に変わっていた。
いや、変わったのは対処の仕方であって逃がさず確実に行動不能にしている。
――それにしても、三年間感じられなかった己の変化の一つが情けか。自分の性格とかけ離れた気持ちとは皮肉だな。
シロにますます懐かれる。彼女から感謝されても、何も変わらないが甘んじて受け取った。
――もしかしたら、獣族に情けを掛けたわけではなく、シロに嫌な気持ちになってほしくなかっただけかもしれないな。
真面な情報が得られないままアイクとシロは王都に戻り、拘束した獣族をドラグニティ魔法学園の地下に保管する。魔法使いが魔法で眠らせると獣族は意識を失った。
暴走した獣族が元凶についての情報を持っているのは確か。彼らが正常な判断を取り戻せたならば、元凶の姿も見えてくるはずだ。
その後、ウルフィリアギルドに依頼の報告を済ませる。言葉にすれば、それだけのことだった。だが、報告書に記される「討伐成功」の文字の裏に「間に合わなかった命」がいくつも沈んでいる。
シロはいつものように夕食の席にいたが、皿の上の肉に手をつけず、冷めたパンをただ無言でかじっていた。腹が空いていないわけではないだろう。
「アイクが何で強くなりたいのか、何となくわかった気がする……」
「強くなることに深い意味はない。気にしすぎるな」
シロは硬くなったパンを噛み締めるように食べきり、葡萄酒を口に運ぶ。
喉を焼き鼻に抜けるアルコールの香りが鼻息で広がる。舌に残る葡萄の皮の渋みは、大人になったばかりのシロの顔をゆがませる。
「こんな日は飲んでないとやってられねぇよな!」
周囲で酒を飲み交わし、笑う冒険者たちの姿にほんの少しだけ耳を向け、仕事後の気分を誤魔化すようにシロも葡萄酒をもう一口。
シロが隣に目をやると、アイクの表情はいつも通り。まるで何も感じていない形相。だが、その無表情は、感情をなくしたのではなく、痛みに慣れてしまった者の顔にも見える。
シロはただ、長く息を吐いた。体の重さは酒で誤魔化せないとわかっていながらも食堂で働く店員に「もう一杯」と手早く注文。アイクよりも人間味が増していく。
「飲み過ぎるなよ」
「ふふっ、わたしはもう、大人だからね」
発情を経験した獣族は大人として認められ、人間の成人と同じ扱いになる。酒を飲んでも問題ない。なんなら神獣の血脈という加護の影響で毒は効果がない。酒も毒の一種だろうから、大丈夫かとアイクは気にしなかった。
「アイク〜、好き、好き〜、チュッチュ〜」
夕食後、シロは完全に酔いが回っていた。ふらふらとアイクの膝に座り込み、抱きつくように腕を絡めて、キツツキのように何度も頬に口づけを落とす。その仕草は子どものように無邪気で、どこか愛らしくさえあった。
だが、アイクはわかっていた。せめてこの瞬間だけは何も考えたくないという、痛ましい現実逃避だ。
周囲の冒険者たちは、気まずそうに視線をそらしていた。その空気を察して、アイクは無言のままシロを抱き上げ、さっさと部屋に戻る。
シロはまだ頬をすり寄せながら、幼子のような蕩ける声で「……アイク」と呟いた。
飲み過ぎるなと言ったが葡萄酒を三杯飲んでおり、ベロベロになっている。魔法で水を飲ませる。
シロは二足で立っていられず床に膝をつき、まるで命令を待つ犬のような姿勢で顔を上げる。喉を潤すために開いた口で、じょろじょろと落ちてくる水を受け止めた。
舌は無防備に伸び、唇の端からわずかに水が伝い落ちる。頬にかかった雫を気にする様子もなく、彼女は静かに喉を鳴らし、嚥下した。
濡れた睫毛越しの潤んだ瞳と、アルコールでほんのり上気した頬が、子どもでは出せない無防備な女らしさを醸し出す。
「はぁ、あっつぅ~い」
いつもは服を綺麗に整頓するがその場に脱ぎ捨て、体を拭かないままベッドに倒れ込む。毛づくろいするように腕や脚を舐め、猫のような仕草を見せた。
酔いに浮かされた琥珀色の瞳をアイクに向けながら、シロはゆっくりと四つん這いになった。
まるで本能に突き動かされるように、細い腰をくねらせながら尻を突き出す。その動きに無駄はなく、女としての喜びを欲しているようで、酔いと発情の境界を見失っている。
彼女の耳が静かな夜に響く雨音や強めの風に反応し、音を遮断するようにヘたる。
今は昔のように外の状況を気にしなくてもいいのだ。
ぼんやりと伸びる影がその姿を艶やかに縁取る。呼吸は微かに乱れ、熱を帯びた頬と、唇から漏れるかすかな吐息が、理性の隙間をそっと撫で、アイクの温もりを欲していた。
アイクは何も動かなかった。ただその静かな視線だけが揺れる空気の中に冷たく差す。濡れた布を手に持ち、彼女を抱きかかえて体を拭いた。がさつに見えて、案外綺麗好きだったりする。
シロはアイクに体を拭かれているだけで喉が鳴る。自分のにおいをアイクに擦りつけ、まんざらでもない表情だ。
ただ、酒を飲んで忘れようとしても、気持ちは消えない。ふとした瞬間に、現実が隙間から顔を覗かせる。酔いが冷めるたびに表情が固まる。
油断するとすぐに助けられなかった者たちの顔や声を思い出したかのように歪む。口角を上げるも唇が震え、視線は自然に伏せられた。
だが、アイクはシロの顎に手を当て、無理やり上を向かせる。
「また強くなればいいだけだ」
「……うん、強くなる」
アイクの大きな手がシロの頭を撫でた。
ただそれだけのことで、シロの瞳が潤んでいく。今まで押し込めていたもの、見ないふりをしていたものが一気に溢れ出したのか、涙が止まらなくなる。
溜まっていた水分をすべて放出する勢いで、子どもみたいに声をあげて泣きじゃくった。




