期待と不安
チャイムが鳴る。詩織は鏡で最後の確認をしてから玄関に向かった。扉を開けると、そこには緊張した面持ちの直人が立っていた。
「おはよう、直人くん」
「お、おはようございます…あの、もう気分は南国ですか?」
「え?なんで?」
詩織は首を傾げる。
「その…ハイビスカスが…」
直人は詩織の髪に差したハイビスカスのオーナメントを指差した。南国を思わせる鮮やかな装飾は、いつもの詩織らしからぬものだった。
「これ?気分よ気分」
詩織は少し照れくさそうに微笑む。「南の島に行くんだし、それなりの準備は必要でしょ?」
「準備、ですか?」
直人は思わず笑みがこぼれる。術を使う実験なのに、まるで本当の旅行のように楽しみにしている詩織の様子に、緊張が少しほぐれた。
「ほら、入って」
詩織が部屋に案内する。「お茶でも飲む?それとも早速…」
「い、いえ…ちょっと集中させてください」 直人は静かに首を振る。祖父の手記が入ったカバンを、これまで以上に強く握りしめていた。
***
部屋に入り、ベッドに腰掛けた詩織の前で、直人が術の準備を始めていた。手記を広げ、詩織との距離を確認しながら椅子の位置を微調整する。「相手の呼吸に意識を合わせる」という祖父の言葉を思い出し、自分の呼吸を整えようと何度も深いため息をつく。指先が微かに震えているのを、詩織は見逃さなかった。机の上に置かれた祖父の手記が、朝の光を受けて微かに輝いている。
「本当に大丈夫?」
「はい…いえ、でも…」
自分の心臓の鼓動が早いのを感じながら、直人は言葉を濁す。
「ほら」
詩織は柔らかな笑みを浮かべ、ベッドの横を軽く叩いた。「ここに座って。私も緊張してるの」
「え?詩織さんが緊張を?」
「そりゃそうだよ。こんな経験初めてだし」
詩織は少し困ったように微笑む。「もし直人くんがエッチな術かけたらどうしよう」
「そ…そんなことしません!」
直人の声が裏返る。
「うそうそ。信用してるよ」
詩織がくすりと笑う。
「ホントですか?」
「緊張もしてるけどワクワクしてるよ。だって南の島だよ?実際に行こうと思ったらお金も時間もかかるから難しいし。もし成功したら改めてお礼しなきゃ」
「お礼なんて…むしろ僕の方こそ、こんな突飛な話に付き合ってもらって」
直人は照れくさそうに言う。「でも、南の島って…実は僕も行ってみたかったんです」
「へぇ、意外」
「小さい頃、祖父が南の島の話をよくしてくれて。その時の写真を見せてもらったり」
直人の声が柔らかくなる。「きっと、祖父の手記を見つけた時から、無意識に憧れてたのかも」
「そっか…」詩織は柔らかく微笑んだ。「じゃあ、その思い出の場所に行けるように、私も協力する」
会話を重ねるうちに、二人の間の緊張が少しずつ溶けていくのが分かった。
直人はゆっくりとベッドに腰掛ける。二人の間の距離が、心臓の音を大きく響かせる。朝の静けさの中で、お互いの呼吸が聞こえるようだった。
「それじゃあ…」
直人は意を決したように、そっと詩織の頭に手を置く。温かい。柔らかい髪の感触に、指先がわずかに震える。
「ちょ、ちょっと待って!」
詩織が突然身を起こす。「もし、もしだよ?夢から覚めた後で私が寝顔でヨダレとか垂らしてても写真とか撮っちゃだめだよ?」
「それは…」
直人は考えるそぶりを見せる。「自信ないですね。涼介に高く売れそう」
「人の寝顔で商売しちゃ駄目!」
詩織が抗議の声を上げる。
「冗談ですよ」
直人は柔らかく笑う。「写真は撮りません。心の中に焼き付けておきます」
「もう…」
詩織は思わず頬が熱くなるのを感じた。でも、不思議と嫌な気持ちはしない。そういえば、これから見る夢だって全部直人と共有することになるんだ。そう考えたら、寝顔を見られることくらい、むしろ可愛いものかもしれない。
詩織は少し安心したように息をつく。「約束だよ?」
「はい」
直人は頷き、再び手を伸ばす。「それじゃあ…」
「うん」
詩織は目を閉じる。その長いまつげが、頬に影を落としていた。
「俺と詩織さんは」
直人は祖父から受け継いだ言葉を、そっと紡ぐ。「南の島でバカンスを楽しむ」
その瞬間、意識が青い霧の中へ溶けていくような感覚。まるで波に身を委ねるように、二人の意識が現実から離れていく。そして——。




