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◇◇
アッサム王国では夏の終わりに降臨祭と呼ばれる式典が教会で執り行われる。
神様がこの世界に降り立ったことをお祝いする儀式だ。
その降臨祭を数日後に控えたある日、リゼットは宮殿に足を運んだ。
盛大な式典を控え、使用人たちが右に左にと慌ただしく働いている中、中庭に面したテラスで悠々と孔雀の扇子を仰ぎながら紅茶を飲む女性の前でひざまずく。
きらびやかな宝石を身につけ、白く塗りたくった化粧と、きつい香水……。豪勢な装飾ゆえに年齢不詳のこの女性こそ、アッサム王国の王妃、ローズだった。
「顔をあげなさい。リゼット」
ローズがねっとりまとわりつくような口調で命じると、リゼットは引き締まった表情を彼女に向ける。
「シャルロットのことで私に話があるそうね」
「はい」
「いいわ。話してごらんなさい」
「ありがとうございます。王女様の新しい執事のクロードという者ですが――」
こう切り出したリゼットは、これまでシャルロットとクロードのやり取りについてつぶさに報告した。
――クロードって執事。やっぱり『漆黒の死神』に間違いないわ。リゼットさん。敵国の暗殺者が王女様のそばにいるなんて危険すぎる。むしろグリフィン帝国の罠と考えるのが普通だと思うの。今のうちになんとかしないと!
昨日、情報屋のメリッサからそう教えてもらったばかりだった。
しかしリゼットはそのことを王妃には伏せたままにした。
リゼットも言わずと知れた無双の剣士だ。すぐそばにいる者が悪事を企んでいるかくらいはすぐに見抜ける。
そういった意味でクロードは『無害』と彼女はふんでいる。
だからなるべく事を荒立てずに、クロードをシャルロットから引き離したいと考えていたのだった。
「そう……。あの子がその執事に『ありがとう』『ずっとそばにいなさい』と言ったのね?」
「はい」
「困ったわね。あの子が苦しむだけだから『侍女や執事とは仲良くさせるな』と、あなたには命じておいたはずだけど?」
ローズの口調は変わらない。口元を扇子で隠しているからどんな表情をしているのか分からないが、線のように細い目は凍てつくように鋭く、リゼットの顔はこわばってしまった。
「申し訳ございません」
「ふふふ。そんな怖い顔しないの。しわが取れなくなるわよ」
「はい……」
今度は少女のように無邪気に笑うローズ。リゼットは愛想笑いを浮かべるのがやっとだった。
しかし次の瞬間、ローズの顔から笑いが消えた。
「もうじゅうぶんよ。リゼット、あの子を殺しなさい」
リゼットの顔が真っ青に変わる。
ローズから命じられていたのは「シャルロットが悪魔に姿を変えたら首をはねること」だ。それなら何とか耐えられる。
しかし悪魔に姿を変える前のシャルロットは、リゼットにとっては一人の可愛い少女でしかない。むしろ5年も奉公してきたことで、多少なりとも愛情がわいている。
(私にはできない……)
しかしむげに断れば、どんな仕打ちが待っているか知れたものではない。
言葉を失ってしまったリゼットに代わり、ローズはすらすらと流れるように続けた。
「国王陛下からもお許しが出ているの。もはやあの子の運命は避けられませんもの。であれば悪魔に姿を変える前に息の根を止めてあげるのも親の愛というものでしょう? リゼット。もしあなたがちゃんと大役を果たすことができたなら、『あの約束』はきっちり叶えてあげるわ」
あの約束とは、ファブル家を再興してもらうこと――ファブル家とはリゼットがの祖父の代まで続いた公爵家のことだ。
もっと言えば、かつてファブル家の繫栄を象徴していた豪勢な屋敷を、ローズはリゼットに与えると約束していたのである。それは今、シャルロットが暮らしている館であった。
元はと言えば、ファブル家が落ちぶれたのは王族のせいだ。
先代の国王の側近だった祖父。
未曽有の飢饉が襲ってきた際に、王宮の財政を立て直したのは祖父の力が大きかったと死んだ母から聞かされた。
しかし周囲から賞賛をあびる祖父のことを、国王はよく思っていなかったらしい。
醜い嫉妬ってやつだ。
そして、あろうことか国民たちの不満を矛先を、祖父に向けさせた。
つまり民が貧しいのは、祖父の失政による結果であると公言し、ファブル家を王宮から追放したのだ。
リゼットが生まれたのはその翌年だった。
両親は貧しい農家として一から出直し、愚痴の一つも言わず、リゼットを育て上げた。
母はリゼットが働きに出る頃、流行り病に倒れた。しかし医者に診せるお金はなく、数日後に息を引き取った。
そうしてリゼットに縁談の話が舞い込んできた日……。リゼットは珍しく酒に酔った父から全てを聞かされた。父の無念が胸に深く刻まれると同時に、負けじ魂に火がついた。
(ファブル家を再興するのは私の使命だ)
そう決意した彼女は、家庭を持つというありふれた幸せを捨て、剣の道に進んだ。
がむしゃらに己を鍛え、戦場に出ては敵をことごとく排除し、ついにはエリートの証である近衛兵に抜擢された。
憎むべき王族を守る立場となったのは本意ではなかったが、ファブル家復興のためなら何でもする覚悟はできていた。
そんな折だ。王妃からシャルロットのことを頼まれたのは。
(この任務さえ終えれば、私の使命は果たせる。もう少しの辛抱だ)
そう何度も言い聞かせて、ここまでやってきたのだ。
だからこそ『約束』を切り札に使われると、もはや断る術があるはずもない。
(ずるい……)
口には出さずとも眼光は鋭くなる。
だがローズは何事もないようにリゼットの視線を受け止めながら、柔らかな口調で言った。
「リゼット。何よりも優先すべきは『王国の未来』。悪魔の誕生に心を痛めるのはもう辞めにしましょう。国王陛下のお体にも悪いもの。分かってくれるわね?」
決して「嫌」とは言わせぬ物言いに、リゼットは深く頭を下げるしかできなかった。
「かしこまりました」
「ふふふ。よろしくね。あなたには期待しているの」
「ありがとうございます」
いくらか雰囲気がやわらぐ。
これ以上はシャルロットのことを話したくない。そう考えたリゼットは話題を変えた。
「ところでジョー殿下のお加減はいかがでしょうか? このところ寝込んでいるとうかがっておりましたので……」
ジョーはシャルロットの異母兄弟で、ローズにとっては実の子どもだ。
目の中に入れても痛くない、と周囲に公言しているほど、ローズはジョーを溺愛している。
しかしここ数日は体調を崩して姿を見せていないとメリッサから聞いていた。(母親と違って)とても素直で心優しい少年なのをリゼットもよく知っている。だから心配していたのだ。
それにリゼットがジョーのことを気にかけていると知れば、ローズも機嫌を良くするだろうとばかり思っていた。
しかし……。
「あなたが気にかける必要などありません。身の程を知りなさい」
今まで聞いたことのない冷たい口調が、リゼットの鼓膜を震わせた。
とたんにひたいから一筋の冷や汗が垂れる。
「も、申し訳ございません……。出過ぎた真似をいたしました」
地面にこすりつけるくらい頭を下げる。後頭部にローズの槍のような視線が突き刺さった。
しばらく続く沈黙が永遠のように感じられて生きた心地がしない。
(なぜローズ様の逆鱗に触れてしまったのだろう……?)
ところが彼女の疑問の答えが明かされることなく、ローズは雨上がりの晴れ間のように明るい調子で返したのである。
「ふふふ。冗談よ。ありがとう。でも平気よ。ただの夏風邪だと医者も言ってたから。2、3日もすればすっかり元気を取り戻すはずよ」
いったいどこまでが本気で、どこからが冗談なのか……。
リゼットにはてんで見当もつかない。
ただ一つ、はっきりと理解できたのは、一刻も早くこの場から立ち去りたいという自分の気持ちだけだった。




