父と子‐2‐
鳩を飛ばしてから三月余りが過ぎたころ。トレキバは根雪の季節を迎えていた。
「明日、お父上様がいらっしゃいます」
顔を見せに寄った屋敷で冷たい声に振り返れば、縄と大きな鋏を手にした家令だ。
「そ、そう。わかり、ました。ケホ! ケホケホっ」
「あ、待て! おい、誰か!!」
身をひるがえしたレヴィアを追いながら、家令が大声を出す。
「捕まえろっ」
追ってくる複数の足音が、レヴィアの背後に迫ってきた。
「こらあ! この混じり者っ」
「あのガキ、森のほうへ行ったぞ」
「もうすぐ吹雪くってのに。凍死でもするんじゃねぇか」
「まだ病気も治ってねぇんだろ? 死なれると仕事がなくなっちまう」
「ガキの監視込みの給金だからなぁ」
「だが、この天気だぞ。死んでもしかたなくねぇか?」
強まってきた雪に、使用人たちは深追いを諦めたらしい。下品な嗤い声が遠ざかっていくが、気配が完全に消えたことを確かめてから、レヴィアは小屋へと向かった。
震えながら入ってきたレヴィアのために、暖炉に薪を足しながらジーグが振り返った。
「明日来る? ずいぶんと急な話だな」
「いつも、突然なんだ」
「突然なはずがない。また意地悪されて」
アルテミシアは椅子に掛けていたレヴィアの毛布を手に取ると、冷え切ったその肩にそっと羽織らせた。
「だが、こんな扱いも、もうおしまいだ。教えたことは覚え込んだな」
伸びてしまったレヴィアの前髪をかき分けて、アルテミシアは間近でその瞳を見つめる。
「でも、ちょっと怖い」
『大丈夫』
うつむくレヴィアに、アルテミシアがディアムド語で話しかけた。
『貴方はどこから見ても立派だわ。教養もある。作法も完璧。優れた医薬術を持ち、人を救うことができる。第一、誰の弟子だと思っているの?』
『でも、ディアムド語は、まだ完璧ではないけれど』
『生粋のディアムド生まれの者でなければ、わからない程度だ。リズィエの名前を正しく呼べないくらいだろう、お前が困っているのは』
なお不安そうなレヴィアの肩を、薪をくべ終えたジーグがぽんと叩く。
『ごめんなさい。いつか必ず、正しくアーテミィシアと呼ぶから』
『ええ、楽しみにしている。でも、貴方からミーシャと呼ばれるのは、とても好ましいわ。貴方だけの、愛くるしい呼び方だから』
申し訳なさそうな顔をしているレヴィアにアルテミシアは優しく微笑み、その頬から手を離した。
二人からさまざまな手ほどきを受けるうちに、なぜディアムド語の担当がジーグなのかを、レヴィアはすぐに理解した。アルテミシアは、初心者には言い回しと発音がより複雑な、宮廷言葉も使うのだ。
◇
「え、今、なんて言ったの?」
聞き取れずに首を傾げるレヴィアに、アルテミシアの口角が上がる。
『卑俗な愚民らの指南など、とく忘れておしまいなさい。気に病む価値もない』
「……えっと?」
「バカどもの教えたことなんか、さっさと忘れろ。クソの役にも立たないぞ」
「リズィエっ」
ジーグがすかさず窘めるが、アルテミシアは「ふふん」と笑うばかりだ。
「えと、さっきのディアムド語は、そういう、意味?」
「おおよそな」
「ディアムド語だと、そんなに難しい言い方、なの?」
瞬を繰り返すレヴィアに、ジーグがため息をつきつつ、首を横に振った。
『くだらない人間の教えに価値などない』
「今のは、わかった」
「俗な言葉のほうが的確じゃないか。まったく貴族連中ときたら」
「……リズィエ」
「もう関係ない話だ」
冷たくて、でもキレイなアルテミシアの微笑みに、レヴィアはしばらく目を離すことができなかった。
◇
新調したトーラの伝統衣装を手に取ったジーグは、レヴィアの肩に当てて何度もうなずく。
「少し大きめの仕立てかと思ったが、ぴったりだな」
レヴィアのふくらはぎまで覆う長衣は、上質な白銀色の布地が使われていた。綾織の地を生かしただけの簡素な意匠が、左胸に刺繍された金糸の鷹を引き立てている。その下に着用する黒の下穿きは、見事な光沢を放つ繻子織製だ。
「よく似合っているぞ。……さてレヴィア、こっちの椅子に座れ」
アルテミシアに衣装を手渡したジーグが、道具箱から鋏を取り出し、手招く。
「お前が孤独だった時間を、きれいさっぱり断ち切ろう」
顔を隠すまで伸びてしまったレヴィアの髪を、ジーグの操る鋏がシャリシャリと切っていった。
「いい男っぷりだ」
ジーグが立ち上がらせてみれば、レヴィアはいつの間にか、凛とした少年へと変貌を遂げている。
「もう、小さくて可愛いレヴィアでは、なくなってしまったんだな」
満足そうにしているジーグの隣で、アルテミシアはほんの少し、寂しそうな笑顔を見せた。




