うれしいということ‐1‐
表情のないレヴィアの前で、黒い襟高の服をまとった、やせた年配の女性が、鞭を片手に甲高い声を張り上げていた。
「違います! 舌を丸めなさいっ。それでは正しい発音になりません!」
ピシリ!!
鋭い音を立てて、鞭が勢いよく机に叩きつけられる。
「そうじゃない!」
教師が再び振り上げた鞭が、思い切りレヴィア目掛けて振り下ろされた。レヴィアの手に浮き上がったミミズばれを目にした教師の口元に、満足そうな笑みが浮かぶ。
「もう一度、同じ文章を読みなさい」
「……はい」
この教師の授業で、傷を負わずに済む日はない。それでも、痛みにさえ慣れてしまったレヴィアは、仕方のないことだと諦めていた。
存分に鞭を振るったあと、薄い肩を怒らせて出ていく教師の背中を、レヴィアは息を殺して目の端で追った。ここでため息など漏らそうものなら、彼女は戻ってきて、その態度を責めるに違いない。
体を硬くして、耳を澄まし続ける。癇性な気質をそのまま表したような、高い足音が遠ざかっていく。
まだだ。
もう少し待つ。
やっと、金属製の外門を閉める重い音が、遠く耳に届いた。
レヴィアは細い息を吐きながら立ち上がると、なおも周囲の気配を探り続けた。
(……うん、大丈夫)
家令が屋敷にいるときの、重苦しく張り詰めた空気はない。出ていくなら今だ。
そっと扉から半身を出してみると、階下では使用人たちが騒いでいた。
「おい、そっち行ったぞ!」
「きゃあっ、ネズミ、ネズミぃ!」
「何匹いるのよっ」
食器の割れる耳障りな音が聞こえてくる合間に、レヴィアはするりと部屋から抜け出した。
(まただ)
ここのところ屋敷を訪れるたび、何かしらの騒ぎに巻き込まれた使用人たちが右往左往している。レヴィアとしては助かるけれど、あの家令が管理しているというのに、不思議な不手際が続いているようだ。
階段を下りようと手すりを握ったところで、鞭打たれた跡が消えていないことに気づく。
(ミーシャと、ジーグも心配するかな。ふたりとも、ちょっとのことでも気がついちゃうから)
それがとても不思議で、申し訳なく思う一方で――。
(うれしい。すごく、すごく嬉しい……)
周囲に気を配りながらも、レヴィアの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
人目を避けながら、色とりどりの夏花が咲き誇る庭へ足を踏み入れたレヴィアの背後で、突如、低い声がした。
「いつも、ああなのか」
「ひゃぁ?!」
文字通り飛び上がったレヴィアが振り返れば、声の主は庭への出入り口と植え込みの間に身を潜めている。町へ行くときと同じ漆黒の装束姿が、影のように溶け込んでいた。
「ジーグ!? ……どうしたの? 見つかっちゃうよ?」
同じように木陰に隠れながら、レヴィアは声を潜めてジーグを見上げる。
「使用人はお忙しいようだぞ。それでなくとも、夕刻の仕事で慌ただしい時間だろう。ああ、ひとりだけ、もう帰り支度をしている料理人がいたな。この屋敷の主は食事をしない。あれは雇っている意味があるのか?」
「使用人たちの食事も、必要だから」
「優しすぎる。お前の役に立たない奴の首は切っていい。それと、あの教師も辞めさせろ。あの教え方はありえない」
「……そう?」
「しかも、鞭を使うか」
舌打ちする勢いで、ジーグは顔を背けた。
「締め上げられた大猪のような声で、“正しい発音”も何もあるまい」
「僕が怒らせちゃうから、仕方ないけどね。もともと、声の高い人なんだけど、怒るほど、高くなっていくんだよ。――大猪。ふふっ。この間、ジーグと捕まえた大猪は、暴れたね!」
共に暮らすようになってから、ジーグはレヴィアに徹底して弓術を教え直した。もともとそれなりの腕があったレヴィアではあったが、今では物陰に隠れている獲物にさえ、わずかな隙間を縫って矢を当てられるほどの腕前だ。




