たのしいということ‐2‐
「髪も伸びたな」
邪魔にならないようにと被っていた布を外すと、漆黒の前髪が、顔半分を覆い隠すように落ちてくる。
「鬱陶しいだろう。整えてやりたいが……」
「大丈夫、ありがと。そろそろ、行くね」
「もう?」
「うん。……仕方、ない、から」
気づかわしげにのぞき込むアルテミシアから目をそらせて、レヴィアはうつむく。
――これ以上、逃げ隠れするならば考えがあります――
そう書かれた張り紙が備品庫に貼られていたのは、一週間ほど前のこと。忍び込むことを見越していた家令からの、最後通牒なのだろう。
無理やり探されれば、アルテミシアたちが見つかってしまう。家令の「考え」に恐れをなしたレヴィアは、家庭教師が来る時間だけは屋敷へ戻ることにした。
今のところ、授業が終わりさえすれば、どうにか逃げ出せてはいる。だが、捕獲するための使用人も日に日に増やされているようで、レヴィアは憂鬱でならない。
「じゃあ、またあとで、ね」
元気なく畑をあとにするレヴィアを見送りながら、アルテミシアは声を落とした。
『今日の授業は、ディアムド語だと言っていたわね。隠し子に帝国の言葉まで学ばせるなんて、ずいぶん教育熱心なこと、ここの当主は。……ねえ、ジーグ』
上品なディアムド語で、アルテミシアは続ける。
『トーラは異国の民に対して、これほどまでに偏狭な考えが残る国なの? レヴィアに対する使用人たちの態度は、度を越しているわ』
『そう、ですね』
レヴィアが無事に逃げられるように、裏で使用人たちの邪魔をしてきたジーグが、表情を険しくした。
『この国が他国と盛んに親交を持ち始めたのは、ここ十数年のことです。特に、最近になって休戦が結ばれた、南西の隣国スバクルとは長年の軋轢があり、南方諸国に対する偏見、排斥感がいまだ根強いのでしょう』
『……そう。それにしても、ご当主の考えがわからないわ。教育などの体裁は整えているようだけれど、レヴィアの置かれている境遇はとても厳しい。大切にしたいのか、蔑にしたいのか』
『当主がどのような立場の人間なのか、わからないことにはなんとも。しかし、度を超すどころではありません』
ジーグの目に静かな怒りが浮かぶ。
『先日など、うっかりぶつかったふりをして、調理したての油を浴びせようとしていました。あの料理人は、芒果のときと同じ輩と見て間違いないでしょう』
『なんてこと! レヴィアは火傷をしなかったの?』
『辛うじてかわしていたので、肩と腕の一部にかかった程度でした。すぐに冷水を浴び、油薬を塗っていたようです』
『レヴィアは何も言わなかったわね……。我慢強いのにもほどがあるわ』
『我慢、ではなく、それがレヴィアの日常なのです。……それ以外を知らないのです』
『その輩、直接会う機会があれば、私が調理するわ』
アルテミシアが悔しげに唇を噛んだ。
『その調理だけは、賛成いたします』
『目に穴も開けてやらなければならないし、忙しくなるわね。それで、レヴィアがあれほど人の手を怖がっていた原因は? やはり使用人たち?』
『いえ。見ている限り、さすがに使用人が、レヴィアに暴力を振るっている様子はありませんでした。しかし、あの防御反応は……』
ジーグの意味深なまなざしを受けて、アルテミシアはすぅっと目を細めた。
『レヴィアは家令の気配のする場所には、なるべく近寄らないようにしているようです』
『現場は見た?』
『残念ながら』
『ジーグすら欺くような人物なの?』
『あの家令は、ただの使用人ではないような気がいたします』
『お前がそう言うのなら、そうなんでしょう。引き続き、もう少し調べてちょうだい』
『畏まりました』
ジーグが恭しく一礼をするのと同時に、強い風がふたりの間を吹き抜けていった。
ザザァ!
畑を囲む木々の枝が大きくしなり、生い茂る葉の風鳴りが辺りを包む。トーラの夏特有の乾いた風に、アルテミシアの紅い髪が空に舞い上がった。
『夏なのに、風がさらさらしている。ここはアマルドとは違うのね。ねえ、ジグワルド。私は生き延びたわ。でも、あまりにも多くのものを失ってしまった』
『ジグワルド』との呼びかけに、ジーグは姿勢を正した。そして、ゆっくりと片膝をつき、頭を垂れる。
『失った私が、持っていないレヴィアに命をつないでもらった。この縁を得て、これからどうしたらいいのかしら』
澄んだ空の色を溶け込ませた瞳で、アルテミシアは風を追う。
主従ふたりは無言のまま、しばらくその場にたたずんでいた。




