たのしいということ‐1‐
芥子の粉末を酒精に溶かした薬が効いていて、まだ眠りから覚めないアルテミシアを見守りながら、ジーグはレヴィアに深々と頭を下げた。
「レヴィアほどの腕を持った医薬師には会ったことがない。本当に、感謝する」
素早く、しかも細やかに傷を縫合していくレヴィアの手技を思い返し、ジーグは改めて感嘆の息をつく。
「薬、効いてよかった。山猫にしか、使ったことなかったから。体重に合わせて計算するの、ちょっとドキドキした」
「レヴィアは学校には?」
「ここから出たこと、ない」
「読み書きや計算を教わったのは、家庭教師からか?」
「ううん、園丁、だよ。家庭教師は殴るから、逃げ……。なんでもない」
口を閉ざしたレヴィアに、ジーグもそれ以上は問いたださなかった。
(この立派な小屋を建てたことといい、園丁というには……。しかし、家庭教師が殴るとはどういうことだ)
レヴィアの置かれた境遇を案じながら、驚かせないよう、ジーグはそっと手を伸ばす。
そして、その大きな手を小さな頭の上に静かに置いた。
畑の資材置き場を整理して作った広場を、夏を告げる風が心地よく吹き抜けていく。
「よし、基本からやるぞ。ダメ教師に言われたことなんか、一切忘れろ」
抜糸も済んで、順調に回復したアルテミシアがニヤリと笑う。
約束どおりに始まったアルテミシアの稽古だが、それはレヴィアが想像していたものとは違っていた。
何しろ容赦がない。
無茶な要求はしないが、できそうだと彼女が判断すれば、諦めることなど許されなかった。
だが、稽古が終われば一転。
先ほどまでの鬼教官ぶりが嘘のように、アルテミシアはレヴィアを甘やかすのだった。
「最初からできる人間などいないぞ」
落ち込む様子を少しでも見せれば、アルテミシアは必ずレヴィアの頭をなでてくれた。
「レヴィならできる。昨日よりもずっといい。例えば……」
的確な助言を与えながら、猫を可愛がるようにレヴィアの頬をくすぐってくる。
それはとても嬉しいのに、同時になぜか悔しくもあって。
レヴィアはいつも、筋肉痛と複雑な思いに悩まされていた。
夏が盛りになっていくにつれて、アルテミシアの表情はますます明るくなっていった。
どこか儚げな笑顔を浮かべることもなくなり、熱心にレヴィアの鍛錬につき合ってくれた。
……というより、暇さえあれば外につまみ出されて、鍛錬させられると言ったほうが正確かもしれないが。
「ほら、もっと踏み込め! 遅いぞ!」
ほんの少し目尻の上がった若草色の瞳がきらきらと輝き、その姿は身の軽い猫のようだ。
レヴィアが打ちこみ、アルテミシアが受ける。
剣を引いて次の攻撃に移ろうとした、次の瞬間。
「……参り、ました」
動きを封じられ、思わず尻もちをついたレヴィアは、荒い息の合間に降参を告げた。
手を差し出し、レヴィアを引き起こしながらアルテミシアが笑う。
「ずいぶんと上達したな。よい手合わせだった。楽しいな!」
「……たのしい? ……面倒じゃ、ない?」
「面倒? なぜだ。レヴィは筋がいい。久しぶりに本気で剣を合わせられた。本当に楽しい」
(たのしい。……楽しい)
大輪の花が咲くような笑顔から目を離せないまま、レヴィアはアルテミシアの言葉を何度も胸の内で繰り返した。
「……うん、楽しい。僕も」
戸惑いながらも微笑むレヴィアの背中に、審判役のジーグがそっと手を添える。
「背もずいぶんと伸びたな。近々リズィエを追い抜かしそうだ」
「筋力もついただろう」
「これだけリズィエが振り回していれば、それは」
「文句があるのか」
「私にはありません」
むっとしたアルテミシアがレヴィアに向き直った。
「私は無茶を言っているか? 正直に言っていいんだぞ」
「ないよ! あるわけない、よ」
レヴィアは慌てて手を振り、伸ばした自分の腕にはっとした。
そこには鍛えられて、しっかりと筋肉がついた腕があった。
家庭教師から逃げ回った森で眺めた、あの頃の細い手首は、もうどこにもなかった。




