第8話「朝の残像」
目が覚めたとき、部屋にはまだ薄い闇が残っていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、天井にぼんやりとした模様を描いている。雨音は、いつの間にか小降りになっていた。葵は、シーツに頰を沈めたまま、しばらく動けなかった。身体のあちこちに、昨夜の感触が残っている。
首筋に残る、唇の熱。
鎖骨に残る、舌先の湿り。
腰に残る、大きな掌の圧。
そして、太腿の外側に残る、指の軌跡。
すべてが、朝の空気の中でまだ生々しく蘇ってくる。胸の奥が、じわじわと熱を帯び、息を吸うたびに甘い疼きが広がった。涼は、隣にはいなかった。昨夜、彼は最後まで自分の隣に座り、手を握ったまま、静かに過ごしていた。無理をさせないと繰り返しながら、時折、頰や髪を優しく撫でてくれた。その優しさが、かえって胸に深く沈んで、眠れなくなってしまった。
「……行っちゃったの」
小さく呟くと、枕元に置かれたスマホが光った。通知が一つ。涼からだった。
『朝早く出ていく。お前が起きる前に。
昨夜は、ありがとう。
今日の夜、また会えるか。
無理なら無理でいい。でも、俺は待ってる』
短い文面なのに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。画面を見つめているうちに、昨夜の彼の声が蘇ってくる。「次は、もう止めない」。その言葉が、朝の静けさの中で、より深く響いた。
会社に着くと、フロアはすでに decibel が高まっていた。
葵は自分のデスクに座るなり、自然と斜め後ろの席に視線を送る。涼はすでに来ていて、画面に向かって静かに作業をしていた。黒いスーツ。白いシャツ。昨夜、自分の上に覆いかぶさっていた体が、今はきちんと整えられている。そのギャップが、かえって胸を熱くする。
目が合った。
一瞬で、空気が変わる。涼の黒い瞳が、自分を捉える。視線が、唇に落ちて、すぐに戻る。その短い間に、昨夜のキスの感触が、まるで今、再び唇に重なっているかのように蘇った。葵は、慌てて視線を伏せる。キーボードに指を置いても、文字が打てない。手首に、昨夜脈を押さえられた感触が残っている気がした。
午前中の会議で、偶然隣の席になった。
資料を広げていると、机の下で、涼の膝が自分の膝に触れた。軽い圧。確認するような、それでいて逃がさない圧。太腿の外側が、ゆっくりと擦れる。生地越しの熱が、じわじわと内側に染みていく。会議の声が、遠くに聞こえる。意識は、完全にその一点に吸い寄せられていた。
「……黒峰さん、意見は?」
上司の声に、涼が短く答える。声は業務的なのに、机の下の指は違う。自分の膝に置かれた掌が、ゆっくりと円を描く。スカートの生地が、指の腹に沿って軽く沈む。甘い痺れが、太腿から下腹部へと落ちる。葵は、唇を噛んで、表情を殺した。
会議が終わり、給湯室でコーヒーを入れていると、背後に気配がした。
「昨夜、よく眠れたか?」
耳元で、低く落とされる声。振り返ると、涼がすぐそこに立っていた。二人きり。ドアは半開き。彼は一歩、近づいてくる。距離が、息がかかるほどになる。
「……あまり」
「俺もだ。お前の匂いが、シャツに残っててな」
声が、さらに低くなる。吐息が、耳にかかる。涼の手が、さりげなく自分の腰に触れた。シャツの上から、指が腰骨のラインを撫でる。昨夜と同じ場所。熱が、一気に広がる。
「今夜、空いてるか」
「……仕事が」
「終わってからでいい。俺の家に来い」
短く、断定される。拒む言葉が、喉の奥で詰まる。涼の指が、腰から背中へ移動し、ゆっくりと上下に撫でる。生地越しの感触が、背骨に沿って甘い電流を走らせる。
「昨夜は止めた。でも、次は本当に止めないぞ」
耳元で、はっきりと。吐息が熱い。葵は、コーヒーカップを握りしめたまま、小さく頷いてしまった。自分の意志というより、体が先に答えてしまったみたいだった。
午後。
仕事に集中しようとしても、意識が斜め後ろに持っていかれる。時折、涼が立ち上がって資料を取りに来る。通り過ぎる瞬間、ジャケットの裾が自分の肩に触れる。意図的だ。熱が、肩から鎖骨へ広がる。吐息が、わずかに漏れた。
定時を過ぎ、フロアの人が減っていく。
九時を回った頃、涼が自分のデスクに歩み寄ってきた。
「行くぞ」
低い声。すでにジャケットを羽織り、車のキーを手に持っている。葵はバッグを抱え、後に続いた。エレベーターの中は、再び二人きり。扉が閉まる音とともに、涼の体が自分を壁に寄せる。背中が、冷たい壁面に沈む。正面から、熱が覆いかぶさってくる。
唇が、重なった。
深く、熱く。舌がすぐに絡みつく。濡れた感触が、口の中に広がる。腰に回された手が、強く引き寄せる。密着する。シャツ越しに、彼の胸の硬さと熱が、直接伝わってくる。甘い水音が、狭い空間に小さく響く。吐息が混じり、額が触れ合う。
「家まで、我慢しろ」
唇を離し、耳元で囁かれる。声が掠れている。自分も、同じように息が乱れていた。涼の親指が、自分の下唇をゆっくりと撫でる。熱い。感触が、唇の内側にまで染みてくる。
車に乗り込み、エンジンがかかる。
雨はすでに上がり、道路が濡れて光っていた。助手席で、涼の手が自分の手を握ってくる。指が絡められ、親指が手の甲を円を描く。その動作が、昨夜のすべての残熱を、再び呼び覚ますみたいだった。
車が、見知らぬマンションの地下駐車場に入っていく。
エンジンが止まり、静寂が落ちる。涼が、ゆっくりと体を寄せてきた。
「最後の確認だ」
低い声。黒い瞳が、自分を真っ直ぐに見つめる。
「ここで、やめたいなら言え。俺は、本気だ」
胸の奥が、大きく跳ねる。怖さもある。でも、それ以上に、この熱を拒みたくない自分が、はっきりとそこにいた。葵は、小さく息を吸って、彼のシャツの生地を握りしめた。
「……やめない」
その言葉を聞いた瞬間、涼の目が、深く沈んだ。
次の瞬間、唇が、再び、熱く重なる。




