第6話「残された温度」
定時を回っても、フロアの明かりはまだ落ちなかった。
ほとんどの社員が帰った後の企画部は、蛍光灯の白い光だけが残る、妙に静かな空間になっていた。キーボードを叩く音も、電話の呼び出し音も、もうほとんどない。ただ、自分の心臓の音だけが、鼓膜の内側で大きく響いている。
葵は、資料をまとめ終えたフリをして、何度も時計を見た。
九時を過ぎている。
涼は、斜め後ろのデスクで、画面を見つめながら静かに作業を続けていた。時折、椅子が小さく軋む音がする。そのたびに、意識が引きつられる。昨夜のタクシーの中で重なった太腿の感触、給湯室で脈を押さえられた手首の熱、午後の机の下で撫でられた膝の内側——すべてが、今も身体の表面に残っている。
「……終わったか」
低い声が、静かなフロアに落ちた。
振り返ると、涼がすでに立っていた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を肘まで捲っている。首筋から鎖骨にかけての線が、照明に照らされてくっきりと浮かび上がる。黒い瞳が、まっすぐ自分を捉えていた。
「うん……一応」
声が、掠れる。涼は短く頷くと、自分のデスクに歩み寄ってきた。距離が、一気に縮まる。彼の体から漂う微かな石鹸の匂いと、一日の終わりの熱が、鼻腔をくすぐる。
「じゃあ、行くぞ」
「どこに……」
「俺の車で。雨、また降りそうだ」
外は、確かに雲が厚く垂れ込めていた。涼が先に歩き出し、葵はバッグを抱えて後に続く。エレベーターの中は、二人きりだった。閉じた扉の内側で、照明が少しだけ黄色く感じられる。涼は壁に寄りかかり、自分を見下ろすように立っている。距離は、手を伸ばせば届くほど近い。
「今日、一日中、お前の匂いがしてた」
突然の言葉に、胸が跳ねる。
「机の下で触った指に、残ってた。お前の体温と、わずかな香水の匂い」
涼の声は低い。吐息が、エレベーターの狭い空間に溶ける。葵は視線を伏せたが、彼の手が、静かに自分の顎を持ち上げた。親指が、下唇の中央を、ゆっくりと撫でる。昨夜の玄関先と同じ動作。熱が、唇の繊細な皮膚にじわりと染みていく。
「逃げないでくれって、言ったよな」
「……逃げてない」
「目が、泳いでる」
指が、唇の端から、頰へ移動する。骨の際を、丁寧に辿る。その感触だけで、膝が微かに震えた。エレベーターが止まる音。扉が開く。涼は手を離したが、視線は離さない。地下駐車場の冷たい空気が、二人の間に流れ込んできた。
車内は、さらに狭く感じられた。
助手席に座ると、すぐにドアが閉まる。密閉された空間に、涼の体温がゆっくりと広がっていく。エンジンをかけ、車が動き出す。雨粒がフロントガラスを叩き始め、ワイパーが規則正しく動く音だけが響く。
信号で停車したとき、涼が体を寄せてきた。
「こっち、向け」
低い声に従い、顔を向けると、彼の顔がすぐそこにあった。鼻先が触れそうな距離。吐息が、混じる。涼の手が、自分の頰を包み込む。親指が、再び唇を撫でる。今度は、よりゆっくりと。下唇を、軽く押し下げるように。熱い。感触が、唇の内側にまで染みてくる。
「昨夜から、ずっと考えてた」
声が、掠れている。
「この唇に、触れたいって」
次の瞬間、彼の唇が、自分の唇に重なった。
柔らかくて、熱くて、湿っている。最初は、確認するように軽く触れるだけ。それでも、その一点から電流が背筋を駆け上がり、胸の奥が溶けるように熱くなる。涼の手が、後頭部に回され、指が髪の根元を優しく掴む。角度を変えて、再び唇が重なる。今度は、少し深く。上唇を、丁寧に吸うように。吐息が、鼻先にかかる。自分の唇が、自然と開いてしまう。
舌先が、触れた。
熱い。濡れている。ゆっくりと、内側を探るように動く。甘い痺れが、口の中から喉へ、そして胸の奥へと広がっていく。葵は、思わず彼のシャツの生地を握りしめた。指先に、硬くて熱い胸の感触が伝わる。涼の吐息が、乱れている。自分だけじゃない。彼も、同じように熱を帯びているのがわかって、さらに深く体が震えた。
キスが解かれたとき、唇の間に細い糸が残った。
「……はぁ」
自分の吐息が、聞こえる。涼の額が、自分の額に寄りかかる。近い。黒いまつ毛が、目の前で震えている。
「熱いな、お前」
声が、喘ぐように低い。彼の手が、今度は自分の首筋に触れた。鎖骨のくぼみを、親指でゆっくりと撫でる。シャツの襟元から、指がわずかに滑り込む。肌に直接触れる熱が、一気に広がる。鳥肌が立った。
「ここで、続けるか?」
問いかけに、答えられない。ただ、目を伏せて、彼の指の動きに意識を奪われるしかなかった。涼は小さく笑うと、唇を自分の耳たぶに寄せた。軽く、歯で挟む。甘い痛みが走り、吐息が漏れる。
「家まで、我慢しろ」
車が、再び動き出す。雨音が強くなる。助手席で、涼の手が自分の手を握ってくる。指が絡められ、親指が手の甲を円を描くように撫でる。その動作が、キスの余韻と混じって、下腹部にまで甘い疼きを落としていく。
マンションの前で車が止まったとき、雨は本降りになっていた。
涼が傘を差し、助手席のドアを開ける。降りると、すぐに腕が腰に回される。密着する。シャツ越しに、彼の胸の硬さと熱が、直接背中に伝わってくる。エントランスまでの短い距離が、ひどく長く感じられた。
エレベーターの中で、再び二人きりになる。
扉が閉まる音とともに、涼の体が自分を壁に寄せた。背中が、冷たい壁面に沈む。正面から、彼の熱が覆いかぶさってくる。唇が、再び重なる。今度は、最初から深く。舌が絡み、吐息が混じり合う。腰に回された手が、ゆっくりと背中を撫で上げる。シャツの生地が、指に沿って軽く引っ張られる。
「上がるか」
唇を離し、耳元で問われる。声が、掠れて熱い。
葵は、キーホルダーを握りしめたまま、小さく頷いた。
拒む理由など、もうどこにもなかった。
ただ、この熱が、夜を溶かすように、自分の中に染み込んでくるのを、受け入れるしかなかった。




