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夜が溶けるまで  作者: 蒼狐


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第5話「残熱」

朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


葵は、枕に顔を埋めたまま、しばらく動けなかった。昨夜の感触が、まだ身体のあちこちに残っている。唇の端に残る、涼の親指の熱。腰に残る、掌の圧。耳元に残る、低い声。

「次に会うときは、もう、逃げられないぞ」


その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。胸の奥が、じわじわと熱を帯びて、息を吸うたびに甘く疼いた。昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じれば、傘の内側の吐息が蘇り、タクシーの座席で重なった太腿の感触が、鮮明に蘇ってくる。


「……どうしよう」


小さく呟いて、ようやく体を起こす。鏡に映った自分の顔は、目元が少し赤く、頰に淡い色が残っていた。昨夜のことを思い出して、また熱が上がる。化粧で隠せる範囲だと自分に言い聞かせて、いつもより丁寧に準備をした。


会社に着いた瞬間、空気が変わった。


企画部のフロアは、すでに decibel が高まっている。新しい配属者が来るという噂が、朝から広がっていたらしい。葵は自分のデスクに座るなり、自然と視線が入り口の方へ向いてしまう。心臓が、早鐘を打ち始めていた。


九時ちょうど。


扉が開く音とともに、涼が入ってきた。


昨夜の雨に濡れたスーツとは違う、きっちりと整えられた黒いスーツ。白いシャツの襟元が、首筋の線をくっきりと浮かび上がらせている。髪は整い、表情はビジネスライクだ。けれど、その黒い瞳が、フロアを一瞥した瞬間に、まっすぐ自分の方へ向いた。


目が合う。


一瞬で、空気が熱を帯びる。涼の視線が、自分の唇に落ちて、すぐに戻る。その短い間に、昨夜の親指の感触が、まるで今、再び撫でられているかのように蘇った。葵は、思わず視線を伏せた。キーボードに指を置いても、文字が打てない。


「黒峰です。本日より企画部に配属になりました。よろしくお願いします」


低い声が、フロアに響く。周囲から「よろしく」と声が上がる中、涼は自分のデスク——偶然にも、葵の斜め後ろ——に向かった。通り過ぎる瞬間、彼のジャケットの裾が、自分の肩に軽く触れた。


意図的だ。


熱が、肩から背中へ一気に広がる。吐息が、わずかに漏れた。周囲に気づかれないように、小さく唇を噛む。


午前中の仕事は、ほとんど手につかなかった。資料を開いても、文字が頭に入ってこない。斜め後ろから、キーボードを叩く音が聞こえる。時折、椅子が軋む音。そのたびに、意識が引っ張られる。


休憩時間。


給湯室でコーヒーを入れていると、背後に気配がした。


「昨夜は、よく眠れたか?」


耳元で、低く落とされた声。振り返ると、涼がすぐそこに立っていた。二人きり。給湯室のドアは半開きで、外から見えなくもない距離。それでも、彼は一歩、近づいてくる。


「……眠れなかった」


正直に答えてしまう。涼の目が、わずかに細められた。満足そうな、そして少しだけ危険な光が宿る。


「俺もだ」


そう言って、彼は自分のコーヒーカップを、葵の隣に置いた。手が、さりげなく重なる。カップの取っ手に触れた指先が、自分の指に軽く擦れる。熱い。昨夜のタクシーの中と同じ熱が、また苏ってくる。


「今日の夜、空いてるか」


「……仕事が残ってるから」


「じゃあ、終わってからでいい」


断る言葉が、喉の奥で詰まる。涼の指が、今度は自分の手首に触れた。脈を測るように、親指で軽く押さえる。早い。自分の心臓が、彼に筒抜けなのがわかって、頰が熱くなる。


「逃げないでくれって、言ったよな」


声が、さらに低くなる。吐息が、耳にかかる。給湯室の蛍光灯の下で、二人の影が重なって見える。外から誰かが来そうな気配に、葵は慌てて一歩下がった。それでも、涼はすぐに追ってこない。ただ、黒い瞳で、ゆっくりと自分を見つめてくる。


「午後、資料の確認を頼む。俺のデスクに来い」


それだけ言って、彼は先に給湯室を出た。残されたコーヒーの湯気が、細く立ち上っている。葵は、自分の手首に残る指の感触を、じっと見つめていた。


午後。


言われた通り、涼のデスクに資料を持っていく。彼は椅子に深く腰掛け、画面を見ていたが、葵が近づくとゆっくりと顔を上げた。


「座って」


隣の空いた椅子を、顎で示す。座ると、すぐに膝が触れそうな距離になる。涼が身を乗り出して、資料に指を置く。その指が、自分の手のすぐ隣にある。ページをめくるたびに、指先が軽く擦れる。


「ここ、修正が必要だな」


声は業務的なのに、視線は違う。資料ではなく、自分の横顔を見ているのがわかる。次の瞬間、机の下で、彼の膝が自分の膝に触れた。軽い圧。確認するような、それでいて逃がさない圧。


「昨夜、タクシーの中でお前が震えてたの、覚えてる」


低く、業務の合間に落とされる言葉。周囲のキーボード音に紛れて、誰にも聞こえない。それでも、葵の耳には、はっきりと響いた。


「俺の腕の中で、熱くなってたよな」


胸が、大きく跳ねる。否定できない。事実だった。涼の手が、机の下で、ゆっくりと自分の膝に移動してくる。スカートの生地の上から、指が輪郭をなぞる。一回。二回。内側へ、わずかに滑る。


「……誰かに見られる」


「見られない位置だ」


確かに、デスクの奥で、パソコンのモニターが遮っている。それでも、心臓は爆発しそうだ。涼の指が、さらに優しく、しかし確実に、太腿の外側を撫でる。生地越しの熱が、じわじわと内側に染みていく。


「今夜、待ってる」


それだけ言って、彼は手を引いた。業務に戻るように、画面に視線を戻す。けれど、その横顔には、はっきりと満足の色が浮かんでいた。


葵は、資料を抱えたまま、自分のデスクに戻った。

膝に残る感触。

手首に残る脈の熱。

そして、耳に残る低い声。


夜が、また溶けるように近づいてくる。


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