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夜が溶けるまで  作者: 蒼狐


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第4話「車内の吐息」

タクシーの後部座席は、思った以上に狭かった。


雨粒が窓を伝う音だけが、密閉された空間に響いている。涼は運転席側ではなく、葵のすぐ隣に座っていた。体を寄せるようにして。最初は少し距離を取っていたのに、信号で停車するたびに、彼の肩が自分の肩に沈んでくる。ジャケットの生地越しに、硬くて熱い腕の感触が、はっきりと伝わってくる。


「……近いよ」


小さく呟くと、涼は窓の外を見たまま、低く答えた。


「わかってる」


それでも、離れない。むしろ、膝が軽く触れ合う位置まで、さらに体を寄せてきた。太腿の外側が、ゆっくりと重なる。スカートの生地と、彼のスーツのズボンの生地が擦れる音が、雨音に紛れて小さく聞こえた。そのわずかな摩擦だけで、肌の下を熱が走る。


タクシーの運転手は前を向いたままだ。バックミラーに映る視線も、特にこちらを気にしてはいない。それでも、この空間が二人だけのものに感じられてしまうのが怖かった。


「家、どっち?」


「……駅の近く。右に曲がって」


声が、思ったより掠れていた。涼は短く頷き、運転手に指示を出す。その間も、彼の手が、座席の上で自分の手を探してきた。指先が触れる。次に、掌が重なる。そして、ゆっくりと指が絡められていく。一本、また一本。骨の際まで、丁寧に。


熱い。


雨で冷えた指先を、彼の体温が内側から溶かしていくみたいだった。親指が、自分の手の甲を円を描くように撫でる。その動作が、店の中でされたときよりも、ずっとゆっくりで、ずっと親密で。胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


「震えとるぞ」


「……雨で冷えただけ」


「また嘘ついた」


涼の声が、耳元に落ちる。近い。吐息が、髪の毛にかかった。次の瞬間、彼の顔が、自分の横顔に近づいてきた。鼻先が、ほとんど耳に触れそうな距離。


「お前の脈、速い」


指で、自分の手首を軽く押さえてくる。確かに、心臓の音がそこまで届いているのがわかる。否定する言葉が出てこない。ただ、目を伏せて、彼の指の感触に意識を奪われるしかなかった。


タクシーが、ゆっくりと曲がり角を曲がる。遠心力で、体が自然と涼の方へ傾いた。肩が、胸に沈む。彼のシャツのボタンが、頰に触れそうになる。石鹸の匂いと、微かな汗の匂いと、男の熱が、一気に鼻腔を満たした。


「……ごめん」


体勢を戻そうとしたのに、涼の腕が、静かに自分の肩を抱いた。拒絶する余地のない、穏やかで、しかし確かな力。


「いい。このままでいろ」


声が低い。胸に響くみたいに。腕の中で、彼の心臓の音が、自分の頰に伝わってくる。早い。自分だけじゃない。彼も、同じように熱を帯びているのがわかって、胸の奥がさらに甘く疼いた。


「十年前、お前が離れた夜のこと、覚えてるか」


突然の言葉に、葵は息を飲んだ。


「……雨の日だった」


「ああ。お前が『もう、幼なじみって呼ぶのやめて』って言った夜だ」


その言葉を、彼は今でも覚えている。当時の自分は、好きだと気づいてしまって、怖くて、距離を取るためにあんなことを言ってしまった。涼の目が、一瞬だけ暗くなったのを、今でもはっきりと覚えている。


「あのとき、俺はお前を追いかけて、キスするつもりだった」


胸が、大きく跳ねた。


「でも、お前の目が濡れてたから、できなかった」


涼の指が、自分の頰に触れる。親指が、目尻を優しく撫でる。今にも涙が零れそうなほど、熱が込み上げてくる。


「今度は、逃げないでくれ」


タクシーが、マンションの前で止まった。雨音が、急に大きくなる。運転手に料金を渡し、ドアが開く。冷たい雨粒が、頰に跳ねた。


涼が先に降り、傘を差して待つ。葵が立ち上がると、すぐに彼の腕が自分の腰に回された。傘の下に引き入れるように。密着する。腰に置かれた掌の熱が、背中まで伝わる。


「送るって言っただろ」


「ここまででいいよ……」


「だめだ」


短く、遮られた。エントランスまで、ほとんど抱きかかえるようにして歩く。自動ドアが開く音。暖かな空気が、二人を包む。それでも、涼は腕を離さなかった。


エレベーターの前で、ようやく体が離れる。けれど、視線は絡んだままだ。彼の瞳が、自分の唇に落ちて、ゆっくりと戻ってくる。一呼吸。二呼吸。


「……上がるか?」


その問いが、低すぎて、甘すぎて、胸の奥を溶かす。


葵は、自分のキーホルダーを握りしめたまま、答えられなかった。ただ、喉の奥が熱くなって、言葉にならない吐息だけが、漏れた。


涼は、小さく笑った。優しくて、少しだけ危うい笑み。


「無理はさせない。でも——」


彼の指が、自分の顎を軽く持ち上げる。親指が、下唇の中央を、ゆっくりと撫でた。熱い。感触が、唇の内側まで染みてくるみたいだった。


「次に会うときは、もう、逃げられないぞ」


その言葉を残して、彼は一歩、後ろに下がった。傘を差し直して、雨の中へ。広々とした背中が、夜の闇に溶けるように遠ざかっていく。


葵は、エレベーターのボタンを押したまま、しばらく動けなかった。


唇に残る、彼の親指の熱。

腰に残る、掌の感触。

そして、耳に残る、低い声。


夜は、まだ、溶けるように続いていく。


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