第3話「傘の内側」
テーブルの下で、涼の指がまだ自分の膝に触れていた。
スカートの生地越しに伝わる熱が、じわじわと内側に染みていく。指先は動かない。ただ、そこに在るという事実だけで、葵の意識は完全にその一点に吸い寄せられていた。呼吸を整えようとしても、うまくできない。グラスを持ち上げた指先が、わずかに震えているのが自分でもわかった。
「……無理してないか?」
涼が、低く尋ねる。声は穏やかなのに、目は笑っていない。烛台の炎が、彼の黒い瞳の奥で揺れて、どこか深く沈んでいるように見えた。
「無理なんて……してないよ」
「嘘だな」
短く言い捨てるように、彼は呟いた。そして、ゆっくりと指を動かした。膝の外側から、ほんの少し内側へ。スカートの生地が、指の腹に沿って軽く沈む。強い圧ではない。むしろ、確認するような、慎重な触れ方。それでも、そのわずかな移動だけで、葵の背筋に電流が走った。
「涼くん……」
名前を呼ぶ声が、思ったより喘ぐように掠れた。自分でも驚く。涼は、その声を聞いても指を離さなかった。代わりに、親指でゆっくりと円を描く。一回。二回。生地の上からでも、骨の際がわかるほど丁寧に。
「十年前、お前が離れた理由を、俺はずっと考えてた」
彼の声が、傘の中ではなく、この薄暗い店の空気に溶けるように落ちる。
「俺が鈍感だったからか。それとも、お前が怖がったからか」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。あの頃の自分が、どれだけ彼の存在を特別に思ってしまっていたか。好きだと気づいた瞬間に、怖くなって距離を取ってしまったこと。今、こうして隣に座っているだけで、あのときの自分がどれほど未熟だったかを思い知らされる。
「……両方、だったかも」
小さく答えると、涼の指が止まった。次の瞬間、彼は静かに手を引き、代わりに自分の膝の上に、そっと掌を置いてきた。今度は、生地越しではなく、直接、指と指が重なる。
熱い。
雨で冷えた自分の手を、彼の大きな手が完全に包み込む。指の隙間に、彼の指が一本一本、丁寧に滑り込んでくる。親指が、自分の手の甲をゆっくりと撫でる。その動作が、ひどく indulgently で、甘くて、胸の奥が溶けるように熱くなる。
「今は、もう怖がらなくていい」
涼の声が、耳元に落ちた。距離が近い。隣り合わせのソファ席では、肩が触れ合うのも当然だった。彼の吐息が、わずかに自分の髪にかかる。石鹸と、ワインの匂いと、男の熱が混じった空気が、鼻腔をくすぐる。
食事は、ほとんど進まなかった。
運ばれてきたパスタも、メインの魚も、味がしないわけではないのに、意識が完全に隣の温度に持っていかれていた。会話は続く。仕事の話、昔の共通の友人の近況、十年の空白を埋めるような、普通の言葉。それでも、テーブルの下で繋がった手は、一度も離れなかった。
会計を済ませ、店を出ると、雨はさらに強くなっていた。
涼が傘を差し出す。今度は、最初よりも明らかに狭く寄せてくる。肩が密着する。ジャケット越しに、彼の腕の硬さと熱が直接伝わってくる。歩くたびに、太腿が軽く触れ合う。その感触が、雨音に紛れて、余計に生々しく感じられた。
「冷えるな」
「……うん」
「こっち、来い」
言われる前から、すでに近いのに。涼が、傘を持つ腕で自分の肩を軽く引き寄せる。今度は、ほとんど抱き寄せるような形だ。耳元に、彼の低い吐息がかかる。髪が、彼の顎に触れそうになる。
「葵」
名前を呼ばれて、顔を上げた。傘の内側は、雨に閉ざされた小さな密室みたいだった。街灯の光が、水滴を通して滲み、彼の横顔をぼんやりと照らしている。距離が、近すぎる。唇と唇の間に、あと数センチしかない。
「……何?」
「十年、待ってた」
その言葉が、雨音を突き破って、胸の奥に直接落ちてきた。
涼の視線が、自分の目から、ゆっくりと唇へ落ちる。一呼吸。二呼吸。彼の手が、自分の頰に触れた。親指が、唇の端を、ほんのわずかに撫でる。熱い。指先の温度が、唇の繊細な皮膚にじわりと染みる。
「今さら、離すつもりはない」
声が、掠れている。自分の心臓の音が、鼓膜を打ち続ける。拒む理由など、どこにもなかった。ただ、怖かった。この熱が、本物だと思い込んでしまったら、もう二度と平常心に戻れなくなりそうで。
それでも、葵は目を閉じなかった。
涼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。吐息が混じる。鼻先が、ほとんど触れそうになる——
その瞬間、強い風が吹いて、傘が大きく揺れた。
雨粒が、二人の頰に跳ねる。涼が小さく舌打ちをして、傘を抑え直す。そのわずかな隙間で、唇は触れなかった。けれど、頰に残る彼の指の熱と、唇の端に残る感触は、はっきりと残っていた。
「……家、送る」
「電車でいいよ」
「だめだ」
短く、断定された。
涼の腕が、さらに強く自分の肩を抱き寄せる。傘の内側で、二人の体温がゆっくりと混じり合っていく。雨は止む気配がなく、夜は、まだ溶けるように続いていくのだった。




