第2話「雨の温度」
七時ちょうど。
葵は、会社のエントランスに降りた。ガラスの自動ドアの向こうで、涼が壁に寄りかかって立っていた。片手に黒い傘を持ち、もう一方の手でスマホを操作している。スーツのジャケットを脱いで腕にかけ、白いシャツの袖を肘まで捲っている。首筋から鎖骨にかけての線が、照明に照らされてくっきりと浮かび上がっていた。
ドアが開く音に、彼が顔を上げる。
「早いな」
「……約束の時間だよ」
「お前、昔から時間に正確だったもんな」
涼はそう言って、軽く笑った。その笑みに、胸の奥がまた熱くなる。葵は視線を逸らし、自分のバッグの紐を握りしめた。
「どこ行くの?」
「近くに、いい店がある。昔のお前が好きそうな感じだ」
「昔の私を覚えてるの?」
「忘れるわけないだろ」
その言葉が、思った以上に真っ直ぐで、葵は思わず息を飲んだ。涼は傘を差し出し、彼女の肩にそっと寄せる。
「行くぞ」
外は、すでに本降りの雨になっていた。冷たい雨粒がアスファルトを叩き、水しぶきを上げている。涼が差した傘の下は狭く、二人の肩が自然と触れ合う。ジャケット越しに伝わる熱が、雨の冷たさと混じって、妙に生々しい。
「近いから歩こう。車は面倒だ」
「うん……」
歩き出すと、すぐに靴が水を跳ねた。涼の歩幅に合わせるように、葵も歩を速める。傘の中は、二人の吐息で少しだけ湿度が高くなっていた。肩が当たるたびに、シャツの生地を通して彼の体温がじわりと伝わってくる。わざとではないのに、離れようとすると、涼の方がわずかに傘を寄せてくる。
「冷えてないか?」
「大丈夫」
「手、出せ」
突然の言葉に、葵は顔を上げた。涼が、傘を持つ手とは反対の手を、さりげなく差し出す。
「……何?」
「お前の手、さっきから白いぞ。血の気がない」
言われて、自分の指先を見た。確かに、雨の冷たさで少し青白くなっている。躊躇いながら、ゆっくりとその大きな掌に自分の手を重ねた。
熱い。
雨の冷たさを一気にかき消すような熱が、指の隙間から染み込んでくる。涼の指が、ゆっくりと自分の指を包み込む。握るというより、包む。親指が、手の甲を円を描くように撫でた。一回。二回。三回。その動作が、なぜかひどく親密で、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……温かい」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「当然だろ。俺の手だぞ」
涼の声が、傘の中で低く響く。耳元に吐息がかかるような距離。雨音が周囲を遮断して、二人だけの空間ができたみたいだった。
店は、駅から五分ほど歩いた小さなイタリアンだった。暖簾をくぐると、木の香りと、チーズとハーブの匂いが優しく迎えてくれる。席は奥の、少し薄暗いテーブル。向かい合わせではなく、隣り合わせのソファ席だった。
座ると、すぐに膝が触れそうな距離になる。涼はメニューを開きながら、さりげなく自分のジャケットを葵の肩にかけた。
「冷えてるだろ」
「……ありがとう」
ジャケットの内側に残る彼の体温と、微かな石鹸の匂い。肩から背中にかけて、ゆっくりと熱が広がっていく。葵は、メニューを見ているふりをしながら、その感触に意識を持っていかれそうになった。
注文が終わり、グラスワインが運ばれてきた頃、涼が静かに口を開いた。
「十年か」
「え?」
「会わなかった時間だ。長いよな」
「……うん」
「お前、変わったかと思った。でも、目元は昔のままだった」
視線が絡む。燭台の小さな炎が、涼の黒い瞳に揺れている。その視線が、自分の唇に落ちて、すぐに戻る。一呼吸置くような、故意とも自然ともつかない間。
「涼くんこそ……大人になった」
「お前のせいだ」
「え?」
「高校の頃、お前が急に距離を置いただろ。理由、今ならわかる」
胸が、大きく跳ねた。あの頃、自分でもよくわからないまま、彼から少しずつ離れてしまったこと。好きになってしまった自分に気づいて、怖くなってしまったこと。
「……覚えてるの」
「忘れるわけない」
涼の手が、テーブルの下で、そっと自分の膝に触れた。指先が、スカートの生地の上から、ゆっくりと輪郭をなぞる。強くはない。確認するような、優しい圧。それでも、その一点から電流のようなものが背筋を駆け上がる。
「今は、もう離さない」
低く、はっきりと。
雨音が、窓の外で強くなった。グラスの中のワインが、小さく揺れている。葵は、自分の心臓の音が、彼にも聞こえてしまうのではないかと思うほど、胸の奥が熱く高鳴っていた。




