第1話「再会の熱」
雨の匂いが、ガラスの向こうから微かに滲んでいる。
白石葵は、オフィスの窓に額を寄せるようにして、ぼんやりと外を眺めていた。夕方の六時を過ぎたばかりなのに、空はすでに鉛色に沈み、街灯がぼんやりと灯り始めている。
今日は金曜日。
周囲のデスクは徐々に人影が減り、キーボードを叩く音もまばらになっていた。
「……疲れた」
彼女は小さく呟いて、眼鏡を外した。目元を指で軽く押さえる。
二十八歳。広告代理店の企画部で、中堅としてそれなりに忙しく働いている。
恋人はいない。正確に言えば、ここ二年ほど、本気で誰かを好きになったことがなかった。
忙しさに紛れて、心の隙間を塞いでいただけ…なのかもしれない。
そのときだった。
「久しぶりだな、葵」
低く、少し掠れた声が、背後から降りてきた。
背筋が、びくりと震えた。
その声は、記憶の奥にずっと眠っていたもの。
幼い頃、近所の公園でいつも先に走っていっては振り返り、にやりと笑っていた少年の声。中学生の頃、少し照れくさそうに「お前、意外と泣き虫だな」と頭を撫でてくれた少年の声。高校で離れ離れになってからも、時折夢に出てきた、あの声…
葵は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、黒峰 涼だった。
昔より、少しだけ背が高くなっていた。スーツの肩幅が広く、首筋から鎖骨にかけての線が、シャツの襟元からわずかに覗いている。髪は短く整えられ、目元は以前よりずっとシャープだ。けれど、その黒い瞳の奥に宿る光だけは、十年前と変わらなかった。
「……涼くん」
声が、掠れた。
彼は、少しだけ口角を上げた。
「まだ『くん』付けか。大人になったんだから、もう少し改まってもいいのに」
優しい口調
「だって……」
言葉が続かない。胸の奥が、熱くざわついている。久しぶりに見る彼の顔が、近すぎる。デスクの間を抜けて、二歩ほど近づいてきたのだ。香水ではない。石鹸と、少しだけ汗の混じった、男の匂いが微かに漂ってきた。
「転勤で戻ってきたんだ。同じフロアらしいぞ」
「え……?」
「来週から、企画部に配属される。よろしくな」
涼は、そう言って、右手を差し出した。
握手。
ビジネスライクな仕草なのに、なぜか心臓が早鐘を打つ。
葵は、自分の指先が少し震えているのを感じながら、その大きな手を握り返した。
彼の手は熱かった。
掌の温度が、指の隙間からじわじわと染み込んでくる。涼の指は長く、骨ばっていて、昔よりずっと男の手だった。軽く握られただけで、指の腹が自分の指の付け根に沈む感触が、鮮明に伝わってくる。
「……冷たいな、手」
彼が、低く呟いた。
目が合う。距離が近い。息が、わずかに混じりそうな近さだ。涼の視線が、自分の唇に一瞬落ちて、すぐに戻ってきた。その一瞬が、長く感じられた。
「風邪、ひいてるのか?」
「ち、違うよ。……ちょっと、疲れてるだけ」
動揺?
声が上ずった。手を離そうとしたのに、彼はすぐには離してくれなかった。親指が、ゆっくりと自分の手の甲を撫でる。一回。二回。まるで、昔のように頭を撫でていた頃の癖が、残っているみたいに。
「……お前、相変わらずだな」
「何が?」
「嘘が下手なところ」
涼の声が、少しだけ低く落ちた。耳元に響くような距離で、彼は続ける。
「目が潤んでる。疲れてるだけじゃないだろ」
胸が、きゅっと縮こまる。否定しようとして、言葉が出てこない。彼の指が、まだ自分の手を離さない。熱が、掌から腕を伝って、鎖骨のあたりまで上がってくるような錯覚がした。身体がおかしい。
「……久々に会ったのに、いきなりそんなこと言わないで」
「悪い」
ようやく手が離れた。けれど、その余熱が指先に残っている。
葵は、自分の手をそっと胸の前で握りしめた。
熱を掴むように。
涼は、少しだけ視線を逸らし、窓の外を見た。
「今夜、時間あるか?」
「え?」
「飯、食おう。昔みたいに」
昔みたいに。その言葉が、胸の奥に甘い棘のように刺さった。高校の頃、試験が終わった夜に、コンビニのベンチで缶コーヒーを分け合った日々。雨の日に、彼の制服の上着を貸してもらって、肩が触れていた感触。
「……いいよ」
自分でも驚くほど、すぐに答えてしまっていた。
涼が、ふっと笑った。その笑みは、優しくて、どこか大人びていて、そして——少しだけ、危ういものを孕んでいた。
「じゃあ、七時に下で待ってる」
そう言い残して、彼は背を向けた。広々とした背中が、オフィスの照明に照らされて遠ざかっていく。葵は、その後ろ姿を見送ったまま、しばらく動けなかった。
手のひらに、まだ彼の体温が残っている。
指先を、そっと唇に近づけてみた。熱い。自分の吐息で、余計に熱を帯びる。
——どうしよう。
久しぶりに会っただけなのに、胸の奥が、いや、全部が
もう、溶けるように熱くなっていた。




