三つの仕込み
永暦元年(一六四七年)二月 済寧西方 深夜
策は、動き出していた。
潘家の屋敷は、永華の段取りで「終わった家」に変わりつつあった。疫病の印も、仕込みを終えた。
噂の種も恵生堂から、西へ向かう人の流れに乗せて、撒いた。
だが――その夜、三人は、済寧から二日の距離にある廃村の外れに、潜んでいた。
当初の手筈には、なかった動きだった。
「……賊の足が、速すぎる」
昼間、西から逃げてきた流民の話を突き合わせて、朱慈煥は顔を曇らせた。読みより、一日近く速い。このままでは、撒いた噂が賊の耳に届く前に、彼らが済寧の郊外に達してしまうかもしれない。
「噂が、間に合わない恐れがある。……なら、確実に届けるしかない」
そうして決めたのが、この夜の仕込みだった。賊が次に野営するであろう廃村――志遠が地理を調べ上げた、あの無人の村の近くに、偽の文を直接落としておく。逃げる小役人が落とした体の走り書き。「済寧に清の援兵三千」「南の金郷の官倉、守り薄し」。永華が昼のうちに、文字の巧拙まで計算して書き上げたものだ。
誰にも気づかれず、置いて、消える。それだけの、静かな仕事のはずだった。
だが、着いてみると、読みはさらに裏切られていた。
「……もういますね」
枯れ葦の陰で、志遠が押し殺した声で言った。
廃村の外れに、焚火が点々と燻っていた。賊の一隊は、今夜すでに、ここまで来ていたのだ。見張りは三つの影。うち二つは、頭が揺れている。連日の略奪の疲れが、賊の夜を緩ませていた。
「引き返しますか?」
永華が囁いた。
朱慈煥は、少しの間、闇の中で野営を見つめた。
「……いや。むしろ、好機だ」
「好機、ですか」
「文を、道端に落とすより、確実な場所がある。――奴らの荷駄の傍だ。朝、必ず誰かが拾う。手筈を少し変える。志遠は馬柵へ。万一追われたときのために、柵の縄を、切らずに緩めておいてくれ。朝、馬が勝手にほどけたように見える緩め方で。永華は俺と、荷駄まで。……奪いも、斬りもしない。俺たちは、来なかったことになる。いいね」
二人が、頷いた。
まず、志遠が闇に溶けた。武人の足は、枯れ草の上で音を立てなかった。馬柵の縄が、静かに緩められていく。
その間に朱慈煥と永華は荷駄の傍へ這い寄った。永華が紙片を、焚火の明かりがぎりぎり届く際に、さりげなく散らす。朱慈煥は野営の縁に石灰を細く撒き、艾の燃え殻を風上の枯れ木の根元に残した。夜が明けて賊が見れば、この村に疫病の祓いの痕があると気づく仕込みだった。
すべてが、終わろうとした、その時だった。
焚火の傍で眠っていた兵の一人が、むくりと、身を起こした。
寝ぼけ眼が、闇の中の人影を――永華を、捉えた。
「……誰だテメェ」
永華の体が、強張った。
その刹那、朱慈煥は動いていた。考えるより先に、手が懐の皀莢の粉を掴み、兵の顔めがけて、正面から撒いた。
「ぶ……っ!?」
兵が仰け反り、くしゃみと涙で悶絶する。だが、その声は、確実に夜営を破った。
「なんだッ?」
見張りが跳ね起きる。
――静かに消える手は、潰えた。
朱慈煥の頭が氷のように冷えて、回った。ならば、逆だ。気づかれたことすら、策に変える。
「志遠! 馬を放て!」
闇に向かって、鋭く言った。
次の瞬間、緩めてあった馬柵が開かれ、驚いた馬たちが、いななきとともに次々と闇へ奔り出した。保険のはずだった仕込みが、攻め手に変わった。賊たちは「敵」と「逃げた馬」の区別もつかぬまま、怒号の渦に呑まれる。くしゃみの止まらぬ兵が、涙声で喚いた。
「ど、毒だ……! 毒を撒かれた……!」
その一言が、闇の中で、何よりの追い風になった。
「走れ!」
三人は、駆けた。先導するのは志遠だった。昼のうちに検分しておいた、涸れ沢の道。石の上だけを踏んで走れば、足跡は残らない。三人は、闇と沢とを味方につけて、賊の喧騒を、みるみる背後へ置き去りにした。
半刻ののち、遠い丘の陰で、三人はようやく足を止めた。
肩で息をしながら、永華が、絞り出すように言った。
「……見られました。私の、しくじりです」
「顔までは、見えていないよ」
朱慈煥は、首を振った。
「あの闇だ。向こうに残ったのは、『何者かが夜営に忍び込み、毒を撒いた』という恐怖だけだ。……そして考えてみてほしい。朝になれば、奴らは、散った馬を集めながら、あの紙を拾い、石灰と艾の痕を見つける。夜の毒。病祓いの痕。済寧の援兵の報せ。南の手薄な官倉。――全部が、一本の筋になって、奴らの頭の中で、勝手に繋がっていく」
永華が、はっとしたように顔を上げた。
「……静かに置いてくるだけの文より、恐怖という裏書きがついた分、報せの効きが、強くなった」
「そういうことだ」
朱慈煥は、ふっと笑った。
「手筈通りにはいかなかった。だが、手が幾重にもあれば、一つの綻びは、綻びでなくなる。志遠の馬柵、お前の文、皀莢――三つが揃っていたから、しくじりごと、策に呑み込めた。……いい夜だったよ」
遠く、賊の野営の方角で、まだ怒号がかすかに聞こえていた。




