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明末の麒麟児  作者: sawami
第7章
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仕えるべき主君

 賊の野営が、遠い闇の彼方に沈んでからも、陳永華の胸の鼓動は、なかなか収まらなかった。

 月のない夜道を、三人は済寧へ向かって歩いていた。先頭を行くのは陳志遠。その少し後ろを、朱慈煥が、何事もなかったかのような足取りで歩いている。

 永華は、その背中を、見るともなく見ていた。

――この人は、いったい、何者なのだろう。

いや、何者かは、知っている。大明崇禎帝の血を引く、皇子。この乱世で最も重く、最も危うい血を、その身の内に流す人。

 初めて会った日のことは、今でも、まざまざと思い出せる。

 同安の、あの家。明の凋落に絶望し、四書五経を睨みつけていた自分の前に、その人は現れた。父と「命より重き大義」を論じ、自分には「書物は、命令ではありません。道具です」と言った。皇族が――教科書の中でしか知らぬはずの雲の上の血筋が、自分の家の卓の向こうに座っている。あの日の驚きは、生涯忘れないだろう。

 そして、旅が始まった。

 平海衛の丘で、彼自身の墓を見た。剃髪を拒んだ者が斬られる町を見た。人の消えた村を見た。男装の女将に会い、余姚では黄宗羲という学者に会い、蘇州では史可法の子に会った。運河では矢の雨をくぐり、義の名を騙る賊を退け、塩の道を歩いて、この済寧まで来た。

 書斎にいた頃の自分には、世界は書物の頁数ぶんしか、なかった。

 今は違う。この足で歩いた道のぶんだけ、世界がある。それを与えてくれたのは、間違いなく、前を歩くあの背中だった。

――そして朱兄は、すごい。

 永華は素直にそう思う。

 博識さは言うまでもない。だが、それだけの人なら、書物の中にもいる。あの人のすごさは、もっと別のところにあった。

 思慮深さ。決して驕らず、常に最悪を想定し、手を幾重にも打っておく周到さ。今夜の仕込みが、まさにそうだった。兵に見つかるという綻びすら、あらかじめ張り巡らせた手の中に、呑み込んでしまった。

 生真面目さ。あれほどの頭脳がありながら、武芸を怠らない。毎朝、誰より早く起きて、二本の木刀を振る。皇子の身でありながら、汗にまみれ、泥にまみれることを、少しも厭わない。

 そして――強かさ。生き残るためなら、死をも偽装し、髪も切り、敵国の試験さえ受ける。あの童試も、そうだ。恵生堂の仕事に追われ、机に向かう暇など、ろくになかったはずなのに、一度で通ってしまった。合格の名簿にあの偽名を見つけたとき、永華は、隣で驚きを噛み殺すのに、苦労したものだった。

 血筋、頭脳、胆力、そして人を惹きつける何か。

 天は、あの人に、すべてを与えている。

――なのに。

 永華の胸の奥に、いつもの、あの小さな棘が、疼いた。

 あの人は明の再興に、興味がない。

 口にしたことは、一度や二度ではない。天寿を全うしたい。読みたい本がある。行きたい場所がある。旗印にされるのは御免だ――と。あの「治国平天下」の答案にすら、清への忠誠ではなく、かといって明への執着でもない、もっと遠い、誰のものでもない祈りを込めていた、あの目。分からないわけでもない。

 旗印に担がれた者の末路を、あの人は、誰よりも知っているのだろう。だから逃げる。隠れる。生き延びる。それは賢い。あまりにも賢明。

 だが――永華には、どうしても、納得がいかなかった。

 天下は乱れている。清の剃髪令に、民は泣いている。南で掲げられる明の旗は、ぼろぼろだ。永暦帝は逃げ惑い、義軍は賊に堕ち、忠臣は死ぬか、降るか、黙るかしかない。

 なぜか。

 旗が、ないからだ。

 正しくは――掲げるに値する者が、旗の下に、いないからだ。

 旗が義を作るのではない。掲げる者次第で、義軍は野盗にもなる。それを教えてくれたのは、他ならぬ、あの人だった。ならば、逆もまた真であるはずだ。掲げるに値する者が旗を掲げたとき、初めて、 旗は本物になる。

 そして、永華が生涯で出会った中で、それに値する人間は、ただ一人。

 今、目の前を、呑気そうに歩いている。

――ものすごく惜しい。

 そんな言葉では、足りなかった。これは、もはや、天下への背信ではないかとすら、思う。

だから。

 永華は、夜道の闇の中で、静かに、息を吸った。

――ならば俺がやむを得ない状況を作ってしまえばいい。

 自分でも、驚くほど、静かな声が、胸の内で響いた。

 朱兄は――いや殿下は、損得で動く人だ。情でも動くが、最後は、盤面で決める。ならば、盤面そのものを、変えてしまえばいい。逃げ場のない盤面を。立つしかない盤面を。あの人が「仕方ない」と苦笑しながら、旗を取るしかなくなる、その日まで――。

 そのためには、力がいる。

 一人の力では、足りない。人がいる。金がいる。網がいる。清の目の届かぬところで、漢人の不満を束ね、川と湖の間に、兄弟の契りで結ばれた者たちの網を、張り巡らせる。天を父とし、地を母とするような――官の帳面のどこにも載らない、もう一つの天下を。

 十年かかるか。二十年かかるか。

 構わない。学んだではないか。この旅で。この人から。策は、幾重にも張る。急がず、腐らず、流れを読み、機を待つ。人を読み、人を動かし、盤面を、少しずつ、こちらの形に変えていく。

あの人が教えてくれた、そのすべてを――いつか、あの人自身に、使わせてもらう。

「永華」

 前から、声がかかった。

 朱慈煥が、振り返っていた。

「ずいぶん静かだね。疲れたのか?それともまた何か、考え事かな?」

 闇の中でも、その目が、穏やかに笑っているのが分かった。

 永華は、一瞬だけ、間を置いた。

 それから、いつもの通りに、答えた。

「いえ。……これからのことを、少し」

 嘘は、言っていなかった。

「頼もしいな。うちの軍師殿は」

 朱慈煥は、笑って、前に向き直った。

 その無防備な背中を見つめながら、陳永華は、胸の奥深くに、たった今立てたばかりの誓いを、そっと、沈めた。

 殿下が教えてくれた、そのすべてを――いつか、殿下ご自身に使わせてもらう。

 冬の夜風が、三人の間を、吹き抜けていった。

 後の世、川と湖に生きる者たちの間で、「天地会」の名とともに語られることになる男の、最初の誓いが立てられた夜のことを――知る者は、まだ、誰もいなかった。

ついに100話になりました。AIを活用しながらですが、自分でもここまで書けたことに驚きです。評価を押していただけるとやる気に繋がるのでこれからもよろしくお願いします。

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