それぞれの三年間
永暦四年(一六五〇年)三月 山東省済寧州
時は、流れた。
永暦元年(一六四七年)の冬、済寧の西を掠めようとした榆園軍の一隊は、済寧に「清の援兵あり」との報せと、行く手に潜む病の影に足を鈍らせ、南へ——守りが薄いと聞いた金郷の方角へと、流れ去った。潘家は難を逃れ、屋敷に戻り、済寧の町は、何事もなかったかのように、運河の喧騒を取り戻した。
だが、天下は、何事もなくは、済まなかった。
翌永暦二年(一六四八年)、乱世は大きくうねった。江西では金聲桓が、広東では李成棟が、相次いで清に反旗を翻して明に帰参し、南明は一時、南中国の広きを取り戻す勢いを見せた。西の曹州では、榆園軍が李化鯨らのもとで大挙して蜂起し、山東の西半は、本物の戦乱の巷と化した。
そして、その同じ年——福建の同安が、清軍に陥ちた。
城を守って殉じた者たちの中に、同安県の教諭・陳鼎の名があった。
永華のもとにその報せが届いたのは、年も暮れようという頃だった。彼は三日、口をきかなかった。四日目の朝、いつもの顔で帳場に座り、それきり、父のことを口にしなかった。ただ、その目の奥に、以前はなかった、静かで硬い光が宿ったことに、朱慈煥は気づいていた。
南明の反攻は、長くは続かなかった。翌年には金聲桓も李成棟も相次いで敗死し、湖南を支えた何騰蛟も捕らわれて果てた。永暦帝は、また西へ、西へと追われていく。福建の海では、鄭成功が廈門を根拠に力を蓄え、いまや東南の海上で、清が最も恐れる存在になりつつあった。
山東の榆園軍も、清の大軍に圧され、往時の勢いを失い始めている。義軍と賊のあわいを漂ったあの大きなうねりが、少しずつ、押し潰されていく音が、西の風に混じって、済寧にも届いていた。
そうして——三度目の冬が過ぎ、永暦四年(一六五〇年)の春が来た。
朱慈煥は、十六になっていた。
「朱文殿。ここの『中庸』の章句ですが、朱子の注では——」
「ああ、そこは注の後半から読むと筋が通るよ。ほら、この一句が前の段を受けている」
恵生堂の帳場の隅で、朱慈煥は潘世璉と額を突き合わせていた。卓の上には、手垢のついた四書と、書き込みだらけの答案の下書き。
来年は、郷試の年である。
童試を共に潜り抜けた世璉は、十五になり、背も伸びて、あの気弱だった少年の面影は薄れつつあった。潘家の支援——書物、紙墨、そして時折届く差し入れ——を受けながら、二人は薬舗の仕事の合間を縫って、机を並べていた。
「それにしても、朱文殿は、いつ学んでおられるのです」
世璉が、恨めしそうに言った。
「昼は薬を量り、朝は木刀を振り、夜は……夜も、店の帳簿でしょう。私は一日机に向かっても追いつかないのに」
「薬の名を覚えるのも、経書を覚えるのも、頭の使い方は同じだよ」
朱慈煥は、笑って誤魔化した。
まさか、前世で散々読んだ、とは言えない。
その夜も、陳永華は出かけていった。
「では、少し、出て参ります」
小ざっぱりとした身なりで、袖に匂い袋など忍ばせて、軽い足取りで裏口から消えていく。戻るのは、いつも夜半過ぎだ。
朱慈煥は、帳簿から顔を上げ、その背中を見送って、首をひねった。
「……永華のやつ、近頃、毎晩だな」
主簿の仕事は、昼のうちに、きっちり片付けている。それは認める。だが、日が落ちると、決まって繁華街の方へ出ていく。酒楼の名を口にしていたこともあった。妓楼の並ぶ界隈で姿を見た、と志遠が言っていたこともあった。
「あいつ……そんな、遊び人だったか?」
同安の書斎で四書五経を睨んでいた、あの生真面目な少年と、どうにも重ならない。歳のせいか。十六、七といえば、そういう年頃といえば、そうなのだが。
「永華殿にも、息抜きは要りましょう」
志遠は、そう言って笑うだけだった。
朱慈煥も、それ以上は詮索しなかった。父を亡くして以来、あの男なりに、何かを紛らわせているのかもしれない——そう思うと、むしろ、そっとしておくのが情けのような気がした。
——だが。
朱慈煥は、知らなかった。
夜の酒楼の奥座敷で、陳永華が会っているのが、女ではなく、男たちであることを。
運河の船頭。塩を担ぐ人足の頭。西から流れてきた榆園軍の敗残の兵。清の帳面から漏れた読書人。剃髪令に父兄を奪われた者たち。——夜の繁華街とは、官の目が最も届かず、あらゆる素性の人間が、酒を口実に集まれる、この世で唯一の場所だった。
盃を交わし、義を語り、兄弟の契りを結ぶ。急がず、選び抜き、一人、また一人。運河に沿って、済寧を心の臓として、南へ、北へ——官の帳面のどこにも載らない、細い細い血の管が、夜ごと、静かに伸びていた。
天を父とし、地を母とする、名もなき網。
その中心で盃を掲げる若者の胸にあるのは、三年前の夜道で立てた、誰にも明かさぬ誓いだった。
そして、朱慈煥自身はといえば。
「——踏み込みが浅いですよ!」
早朝の河原に、志遠の鋭い声が飛んだ。
朱慈煥は、長短二本の木刀を構え直し、息を整える。三年の間に、背は伸び、肩幅は広がり、二刀は、もはや彼の腕の延長のように馴染んでいた。
志遠との鍛錬は、一日も欠かしたことがない。志遠は用心棒の仕事で町の顔役たちに重宝されながら、朝だけは、必ず朱慈煥のために空けていた。
「昔は、私が手加減しておりましたが、近頃は——手加減の仕方を、忘れそうになります」
打ち合いの後、志遠が汗を拭いながら言った。
「それは、光栄だな」
朱慈煥は、笑って木刀を収めた。
学問、薬、剣。そして、生員という身分。
十六歳の身の内に、生き延びるための備えは、静かに、しかし着実に、積み上がっていた。
天下はまだ、定まらない。南の旗は遠く、西の義軍は潰えかけ、清の世は固まりつつある。それでも——いや、だからこそ。
「さて、今日も、始めるか」
朱慈煥は、朝日の昇る運河の町へ、歩き出した。
三年の歳月が、三人それぞれの内に、それぞれの形で、力を蓄えさせていた。
その力が試される日は——もう、そう遠くなかった。




